加治木義博 「卑弥呼を攻めた神武天皇」  古代沖縄経済の中心産業「宝貝」

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古代の沖縄の人たちは主として中国との交易で生活をしていました。

柳田国男氏の「海上の道」から引用してみます。

「秦の始皇帝の世に、銅を通貨にするまでは、中国の至宝は宝貝であり2種のシプレア・モネータと子安貝は、一切の利欲願望の中心であった。」

 

「モネータ」は「マネー」の語源であるラテン語で貨幣のこと。日本では「黄色宝:キイロダカラ」と呼ばれる。

沖縄がその供給地で、アジアの全域にわたって、沖縄近海産の宝貝が出土している。

では、そうした宝貝産業はいつごろから始まったのか?

それは全島にあった「貝塚」が教えてくれる。ところが沖縄の貝塚からは貝殻の殻は全く出てこない。

それは貝塚がつくられた、縄文・弥生時代すでに宝貝は貴重な輸出品であって、食用にすることが許されなかったことを、はっきり物語っているのである。

ではその宝貝を供給して、世界経済を支えていたのは、どういう人々であったのであろう。

鎌倉時代に中国へ向け出航した日本商人が、台風にあって琉球列島へ漂着したときの見聞録「漂到琉球国記」という文献が今も残っている。それにはその筆者の写生が載せられているが、そこに描かれた風俗は私が13回にわたり現地調査したタイ奥地からミャンマーへかけて住む、カリエン人そのままである。

また別族は広東省海南島雲南省に住む。日本語と同系統の言語を話し、風俗習慣も私たちと多くの共通点を持っていることがわかった。

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カリエン人たちが残した最大の遺物。これが「KOREAN]である。英語ではコリアンと呼ぶが、その先祖のインド語では「カリエン」と発音する。それが「高麗人」の英語読みであることは御存知だと思うが「コウリー」と発音できるこの「高麗」という国名はいったい、何を意味しているのだろう。

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これが「宝貝」だったのである。

だから当時の高麗人(カリエン人)にとってはこの貝が生活を支えてくれる「宝」であったことは誰にでもわかる。

こうみると「宝島」(鹿児島のトカラ列島に浮かぶ)の意味もよくわかる。

また沖縄から熊毛にかけての高麗人(カリエン人)が九州を北上して、高句麗を建国したのだ。

★和人と倭人と縄文、弥生、古墳人の区別

「和人」は縄文時代から日本列島にいたが、「倭人」は卑弥呼の時代に初めて九州に来たアショカ仏教布教団が広めた初期仏教信者のことである。

彼らは、古墳と呼ばれるストゥーパを日本に建て始めた。

だから「和人」が縄文人なら「倭人」は古墳人である。

厳密に言うと「倭人」は「弥生人」とも違う。「倭人伝」は「銅鐸」について何ひとつ書かないことで、はっきり書き分けている。弥生時代後期の本州西部には銅鐸を持った人たちが住んでいたが、古墳がつくられるようになるとそれは姿を消した。

勢力の交代があったこともはっきりしている。

当然「倭人」は「弥生人」と区別しなければならない。

また「倭」の発音は「ウワイ」である。

三国史記」が記録している三韓の王たちはみな「和人か倭人」である。

 

(memo)・・・・・・

殷・周の貝貨

貝貨 15-21mm 0.5-2.0g

 中国では新石器時代の晩期の紀元前30世紀ころから、墓地に宝貝が埋葬されています。
 宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島ベトナムです。 はるか海上の道を伝って運ばれたものです。 宝貝の裏面は丁寧に削り取っています。
 殷王朝の末期から西周王朝の末期にかけて、王や王族が家臣に宝貝を下賜した記録が残されています。
 西周第5代の天子穆公は、治世13年(紀元前989年)6月6日、西域の赤烏の王に、
    墨車4輌、黄金40鎰(800両)、貝帯50、朱薬300嚢
を下賜したとの言い伝えがあります。
 柳田国男さんは『海上の道』の中で、琉球諸島宝貝が殷王朝に供給された可能性を強調されています。

 

 

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↑殷の時代の貯貝器

◆ 8~9世紀 中国雲南地方(南詔
 『唐書南蛮伝』では、南詔国の風習として、
   ■ 貝をもって市易し、貝十六をもって一覓(べき)となす。
と記しています。「覓」の意味は不明です。

◆ 13世紀 中国雲南地方(大理)

「貯貝器」という貝貨を保存するための器で、
雲南地方の墓から出土したもの。
(「クロニック世界全史」(講談社)を利用しました)

 13世紀末、元を訪れたマルコポーロは、『東方見聞録』の中で、雲南・大理地方で、子安貝が貨幣として使用されていることを書いています。

◆ 14世紀 タイ
 14世紀の中国の汪大淵は、タイのロップ・ブリ地方ではコインの代わりに子安貝で取引するのがルールだと記しています。
 タイでは18世紀まで使われていたそうです。

◆ 14~20世紀 アフリカ(マリ)
 1352年、西アフリカ内陸部のマリを訪れた旅行家イブン・バットゥータは、宝貝が金の延棒や銅線(”銅銭”ではありません)とならんで正規の通貨として使われており、しかも産地のモルディブ諸島の1000倍近い価値があったことに驚いています。 宝貝モルディブから北アフリカ経由で、サハラ砂漠を横断して伝えられたようです。
 16世紀初頭にこの地を訪れたレオ・アフリカヌスも、高額貨幣は金、低額貨幣は宝貝だと記しています。
 この地方では、20世紀前半まで貨幣として使われていたそうです。

◆ 15世紀 モルディブ諸島
 1416年、鄭和の南征に同行した馬歓の報告書『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』では、モルディブ宝貝を採集し、シャム(タイ)やベンガルに輸出していたことが書かれています。

  ● ダホメ王国
  ダホメ王国は、西アフリカの現在のベナン共和国にあった人口およそ20万人の国です。 17~18世紀が最も栄えていた時期でした。
  王は神聖なものとされ、絶大な権力を誇っていました。 常備軍は『アマゾン軍団』と呼ばれ、5000人のよく訓練された女性兵士たちでした。

  ● 80進法
  宝貝を数えるとき、「80進法」という慣習がありました。 仮に貨幣の単位を「セディ」とすると、1セディ=宝貝1個、10セディ=宝貝10個なのですが、100セディ=宝貝80個なのです。 さらに、1000セディ=宝貝800個、1万セディ=宝貝6400個となります。
  今、「ヤシの実」ひとつが1セディとすると、商人が100個のヤシの実を100セディ(=宝貝80個)で仕入れ、市場でひとつずつ売ると、宝貝100個になります。 この差の20個が商人の利益となるのです。

  ● なぜ宝貝を?

(地図は、帝国書院の「新詳高等地図」を利用しました)

  宝貝は西アフリカの各地で使用されていました。 この宝貝は、イスラムの商人によりモルディブ諸島から北アフリカサハラ砂漠を経由して運ばれたようです。 13世紀ころから、ダホメ王国の北にあったマリ帝国でも使用されていることが記録されています。
  なぜ宝貝を貨幣にしているのですか? 
  この質問に、ダホメの王はこう答えたそうです。
    ”誰もが模造できない”
    ”誰もがひそかに金持ちになることができない”

  ● 奴隷の輸出
  一見のどかな王国のようですが、王の命令の前には、人の命は限りなく小さなものでした。
  国内では、王のスパイたちが不穏分子を捕らえました。 『恐怖政治』です。
  また毎年、近隣諸国の人と財を奪う戦を行いました。 獲得した捕虜は、一部を先祖への貢ぎとして生贄にし、残りをヨーロッパ人に売却しました。 ヨーロッパ人からは火器を買い、ますます強力となりました。 この地帯はヨーロッパ人からは『奴隷海岸』と呼ばれました。
  奴隷の輸出は、16世紀に始まり、アメリカ大陸での需要の高まりで、年を追うごとに盛んになり、奴隷の値段もますます高値になりました。
   ・17世紀後半 宝貝1~3万個 (4~7ポンド)
   ・18世紀前半 宝貝4~5万個 (10~20ポンド)
   ・18世紀後半 宝貝15~20万個  (20~30ポンド)

  ● その後の王国

ガーナの20セディ白銅貨(1995年発行)

  1848年、ヨーロッパ人から宝貝を輸入することにしました。 ヨーロッパ人は、喜望峰周りの船で何億個もの宝貝を運んできました。 そのため、大きなインフレになり、経済は大混乱しました。
  遂に1894年、ダホメ王国はフランス領となり、宝貝の公的な使用も1901年に終了しました。
  その後1965年、ダホメ王国の西隣に建国されたガーナ共和国で新たな貨幣制度が設けられたとき、貨幣の単位は「セディ」と決められました。 セディとは貝殻の意味です。

 

http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/A005.htm

 

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2016年に沖縄では、古代ローマ帝国のコインが発見されています。また、京都や広島でも紀元1世紀から4世紀頃の古代ローマガラスが発見されていることからも、古代日本でオリエントとつながる交易があったことの裏付けはあります。

沖縄の古代ローマコイン
日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG26HH8_W6A920C1000000/

その後の日本には、聖徳太子の時代にペルシャ人が朝廷の役人になっていたことを証明する木簡が発見されており、「秦氏」などの有名な渡来人がいたことからも、様々な渡来人が行ったり来たりしていただろうことは確実です。シルクロードという陸の道以外に、海洋民族がたどってきた「海の道」もあったのではないかと推測できます。

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古代史の画像・日本人のルーツ: 貝を貨幣にする大規模な分業

 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 125~125頁
     ㈱徳間書店