加治木義博 「卑弥呼を攻めた神武天皇」

☆前作「黄金の女王卑弥呼」のポイント

卑弥呼は沖縄の伊是名島で生まれたイザナギイザナミの子供。

天照大神であり天皇家の祖先である。

北上して鹿児島で邪馬台国の女王となる。記紀では崇神天皇の頃に対応。

また神功皇后卑弥呼や台与が反映された人物である。

神宮皇后の新羅征伐の話しは、すべて九州内で起こった出来事である。

(この頃はまだ朝鮮半島には新羅の国は存在していない)

九州内で新羅に相当するところは、枚聞(ひらきき)神社のある南薩摩である。

近くに開聞(かいもん)岳もある。ここがヒラキ(新羅)に相当する地で、この九州から朝鮮半島へ移り、のちに新羅がうまれることになる。

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☆今回のこの本のポイント

卑弥呼の邪馬臺国から新政権の邪馬壹国になったときの長は「伊支馬」だった。

この名は垂仁天皇の「活目・伊久米」によくあう。そして同じ時期にやはり伊支馬にあう名乗りをもった人物「高句麗王・位宮」がいる。位宮の家系は、沖縄から出て、鹿児島、熊本の地名を代々名乗りに持っていた。彼の数代前からは、北朝鮮高句麗にも君臨していて、漢や扶余に侵入している。位宮も魏が公孫氏を滅ぼしたときは、魏に味方して軍隊を出している。しかしその後、元公孫氏の領地を巡って魏と紛争を起こし、とうとう大戦争になって、首都・丸都城が陥落し、逃げて行方不明になった。

その直後に、卑弥呼と狗奴国王との不和が、魏の帯方郡に訴えられ、卑弥呼は死んだ。

そして「伊支馬」を首班とする新政権「邪馬壹国」が誕生した。

伊支馬は日本側の記録では「垂仁天皇」だからそれまでの「旧政権・邪馬臺国」の首班は「崇神天皇」。

*公孫氏(こうそんし)は、三国時代の中国において栄えた氏族。2世紀後半、遼東地方に半独立政権を樹立した。

位宮(いきゅう). 姓:位名:宮字:? 生没年(?-?) 出身地:高句麗親:伊夷模子:. 高句麗の王、伊夷模の妾の子。 生まれてすぐに周囲を目で見回すことが出来たという。勇敢で乗馬や狩猟を好んだ。 呉の孫権が遼東の公孫淵に使者を送り、 公孫淵に殺されたとき、逃げてきた呉の人間を保護し呉に送り返した。 238年、魏の司馬懿が公孫淵を討伐したときには軍勢を率いて魏を助けた。 242年、西安平に進入し略奪を働いたが幽州刺史の毋丘倹に撃退され、 都の丸都を破壊されると逃亡した。

日本との係り

魏志倭人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる倭国大乱から公孫氏滅亡後の卑弥呼による魏への遣使までに関する記事が途絶えており、かつ公孫氏滅亡直後に遼東経由で遣使されたことから、公孫氏が倭の勢力が中国本土朝貢する道を遮っていたことになり、倭からの朝貢を公孫氏が受けていた可能性もある。

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1.定説では神武天皇崇神天皇は同一人物ではないかとされている。

しかし加治木氏は別々に存在した天皇で、共に同時代に戦ったとしている。

記紀によれば、崇神天皇を攻めた武埴安彦(タケハニヤスヒコ)との戦いのことが書かれています。またそれとは別に武埴安彦(タケハニヤスヒコ)側から書かれた記録が存在します。それによると武埴安彦(タケハニヤスヒコ)側の軍というのは神武天皇軍だったのです。

そして神武天皇高句麗王でもありました。

2.「神武天皇に作戦を進言した椎根津彦」と「崇神天皇を攻めた武埴安彦(タケハニヤスヒコ)」は同一人物である。

また狗奴国は男王が治めその官命は「狗古制鼻狗」だと書いてある。(「倭人伝」)

これは椎根津彦と武埴安彦(タケハニヤスヒコ)と同一人物である。

共に3人は「コンチアキヒコ」と発音されていた人物である。

 

武埴安彦(タケハニヤスヒコ)=椎根津彦(シイネツヒコ)=狗奴国王=狗右制卑狗=神武天皇

 

3.卑弥呼崇神天皇の時代と一致するので(卑弥呼崇神天皇)対(狗奴国・神武天皇)の図式が成り立つ。

男王に滅ぼされたという史実はこのようなことであったと結論づけています。

そして戦いの場所は奈良ではなく南九州の鹿児島隼人町であるとしています。

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狗奴国に対応するところは屋久島であるとしています。

 

この戦い当時の北半球は、小氷期と呼ばれる時代で、東京天文台編の「理科年表」の世界気温分布図で見ると鹿児島と奈良の1月の気温差は10度近くもあります。

倭人伝」には「倭は温暖で冬でも夏でも生野菜が食べられる」という記録があり、倭人は準亜熱帯に住んでいたことがわかっています。

また、人々は筒頭衣(布を頭と手が出る部分を残して筒状に縫っただけのもの)という身なりでした。なのでわざわざ寒くて土地の痩せた奈良まで攻め込む必要はさらさらないのです。