木村正昭著「邪馬台国は沖縄だった」

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前回のポイント

★北谷海底城郭遺跡

2000~1000年前に造られ、1000年前以降に水没。

さらに詳しく調査した結果、2200年以降に造られ、600年前にほぼ水没。その後1000年前以降に再び海中に水没しはじめたことがわかった。

★与那国海底ピラミッド遺跡

2000年前には造られており、1000年もの間陸上にあったことがわかった。

 

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今日はP131~の内容が興味深いので、それを取り上げることにしました。

簡単にいえば、北谷遺跡の海中の王墓とおもわれるものが、韓国の文武王の水中墓に似ているという箇所があり、とても興味深いので本文と照らし合わせて、わからないところはネットで検索してみました。

☆文武王の水中墓とは?

文武王は、、626年 - 681年 新羅の第30代の王である(在位:661年 - 681年)。

先代の武烈王の長子。

在位中に高句麗を滅ぼし、またの勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。

在位21年にして681年7月1日に死去し、文武王とされた。王自身のかねてからの遺詔によって、新羅では初めて火葬された王となり、骨壷は日本海の浜辺の大石の上に葬られた。有名な海中王陵である。

1967年になって、水没された王の墓が発見された。 海中に墓を持つ王というのは、世界の王の中でもこの大王ただ一人である。

文武王は663年に、唐と図って百済・日本の連合軍を錦江下流の白村江で壊滅させ、百済を滅亡させる。ついで668年には、 高句麗の都の平壌城を攻めて高句麗も滅ぼす。そして韓半島の統一を果たすのである。今でも韓国では「文武王」とその父 である「武烈王」は、史上初めて朝鮮の統一を果たした偉大な大王として人々の尊敬を集めている。文武大王が在位した時代は、日 本ではちょうど天智天皇天武天皇の時代と重なっている。 天武天皇の孫が文武天皇なのであるが、なにか関係がありそうな気がします。これも調べる必要がありそうですね。

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画像は「邪馬台国大研究」のブログよりお借りいたしました。

文武王の海中墓はこのくらいにして、北谷の遺跡に戻りましょう。

北谷の墳墓で興味深いのは亀石と蛇石らしきものが発見されたということです。

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(引用)P131~・・・・・・

 この北谷沖の海底城郭のグスク構造の中に、与那国島の海底ピラミッドと同じく守護神の亀を模したと思われるドルメンのようなものが見つかった。ドルメンの背から見ると、人工的に整形された石が岩に立てかけてある。

この状態は沖縄本島南部の糸満市のドルメンや、セーファーウタキの巨大な石組み(これは自然物とされるが)とも似ている。

だが、不思議なことに、その亀を支えている土台の石灰石の盛り上がりが10メートルほどまっすぐにのびているばかりでなく、うねっている。そしてその先端は、蛇か龍のように見えた。ワニの頭のように見えなくもないが、からだの長さからいえば、どう見てもヘビか龍の頭だろう。ちょうど巨大な亀のしたから大きなヘビが鎌首を持ち上げているイメージに見てとれる。ここにはドルメンの前に巨大な廟のように見えるピラミッド状の構造物が控えている。向かって左側からそれを見ると「三神山」のシンボルのように見える。

おもしろいのは、海底ピラミッドのある環境が1300年ほど前とされる韓国の文武王の水中墓と似ていることだ。年代は北谷海底城郭の時代と一致する。この水中墓は、海中に亀型の大石の墓(ドルメン)がある。

墓の構成は、北谷のドルメンと似ている。海を眺める陸に陵があり、その海側に水路がある、といった構図だ。

またこれは沖縄に特徴的な亀甲墓にも似ている。

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↑与那国の亀甲墓

さらにこの亀を支えている史石がヘビ(龍)のようになっている。これは龍となって国を守る文武王の実話を暗示させる。

これはマヤ遺跡のククルカンにも似ている。

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さて私は2000年、文武王の水中墓を現地調査するチャンスを得た。

韓国の文武王の在位は661~681年。統一新羅をつくった王で、その死に際して「東海岸から龍となって国を守るため、遺骸は海に葬れ」と命じた。

約1300年前の出来事である。この王墓が後に発見されることになる。

というのも、「三国史記」に書かれたこの話は、単なる説話と考えられていた。しかし1959年に海岸から内陸へ2キロメートルのところにある感恩寺(かんのんじ)跡の発掘により、基壇のしたに特殊な遺構が発見されて「龍穴遺構」と名づけられ、文武王の計画があきらかになった。そして1967年キョンサンプクトウォルソン(慶尚北道月城)郡沖で水没した王の墓が発見された。

感恩寺の敷石の下に見つかった穴道(龍道)の延長に、文武王の海中陵が発見されたのである。

琉球と古代新羅に思いを新たにさせられる。

 

(memo)・・・・・・

感恩寺(かんのんじ)韓国慶

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アショカ王塔 日本近江

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感恩寺を見て、即座に思い出したのが近江のアショカ王塔です。

似てますね。ということは新羅の感恩寺もアショカ仏教の影響が大きいのでしょうか?

言語学者の加治木氏は卑弥呼伊是名島で生まれたイザナギイザナミの娘でありアショカ仏教徒であるという見解をもっておられ、かつ新羅をつくったのは沖縄から北上した倭人であるとしています。今回この記事を書いていて、沖縄はやはり重要なエリアだとあらためて思った次第です。ちなみに近江にいた古代豪族息長氏(おきながし)も私的には沖縄からきた氏族だと思っております。