加治木義弘「黄金の女王 卑弥呼」 「鬼道」はシンドゥー(ヒンズー)?

天照大神」を沖縄語で発音すると、「チンヅウ・ウガン」。これは本土語に翻訳すると「シンドウ・オガミ」。漢字で書けば「神道・拝み」である。

古来、天照大神は日の神、太陽神であるとされている。これは卑弥呼であろうとなかろうと無関係である。

彼女が神そのものとは考えられないから、ミコ(巫女)だとすると、彼女の名乗りの本当の意味は「日巫女」。それを帯方郡使が「卑弥呼」と当て字したのである。

それなら彼女が拝んでいたのは日の神であったシバである可能性がある。

国名の「邪馬」はジャバともヤマとも読める。どちらもまちがいなくシバの別名だ。

日本語はインドやマレー語の影響が強い。

「シバ」はほんとうに、ヒミコ当時の日本でも拝まれていたのであろうか。

★天御中主はインドの最高神ビシュヌー

古代日本、インドから鹿児島へやってきた人たちはいつごろで誰がやって来たのか?

それは、最初に見ていただいた「ソナカ」という名を持った人物である。

彼はヒメゴソの夫だった。すなわち記紀仲哀天皇として記録されているその人こそ、インドから来た可能性が一番高い人物だったのである。

しかし彼がインドから来たということを知るためには、卑弥呼の「鬼道」をもっと考えなければならない。

それがシバ神やシンドゥ教に関係あるならば記紀の神のなかに、一致するものがなければならない。

古事記の中に一番最初に出てくる神の名は「天御中主」で「アメノミナカヌシ」と読むように教えられた。

これは読み方を変えると「ミチュウヌシ」となる。これはシンドゥー教の最高神「ビシュヌー」である。沖縄語ではミはビに変わる。

「シ」は「~の」という助詞であって「之」にあたる。これを速記者が「主」と当てたのである。本来は「~之神(シン)」と後の神に付くものなのだ。

なので「ビシュヌーの神」となる。

 

日本の祭りにつきものは「おみこし」や「やま」である。京都の「山鉾」「山笠」「山車(ダシ・ダンジリ)」などはシンドゥーの行事である。

ネパール~マレーシア、バリに至るまで見られるシンドゥーの祭り行事であり、日本もそれとまったく同じである。

この「山」は「シバ」をあらわしているのである。

「邪馬」は「シバ」で邪馬台国はシンドゥー国である。

「鬼道」はシンドゥーであったことはおおよそ見当がつくだろう。

卑弥呼政権を倒したのはスサノオ=狗奴国

天御中主(ビシュヌー)の神は必ず「アナンタ」という名の巨大な大蛇をそばに連れている。首から上が7つのわかれている大蛇である。

記紀ではこれをスサノオが退治する。天照大神は岩戸に隠れる。

これは卑弥呼が狗奴国の男王と戦って死んだのと一致する。

P229~

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http://ksbookshelf.com/DW/Kanjirin/appendix/ChinaHanto.html

★魏の次の晋が末期に余命を保った東晋王朝の時代、399年にインドへ旅してマガダ国へも行き「仏国記」を残した中国の僧法顕はその中に旅で実際に見た「ヤバダイコク・耶婆提国」が登場する。これは現在のインドネシアのジャワ島のことである。

その国は当時「シンドゥ教国」で仏教徒も少しはいたが、それはごくわずかだったと書いている。

しかしこの法顕の当て字は「ヤバ」とは読めても「ジャバ」とは読めない。

これは日本のほうも「ジャマダイ」から「ヤマダ」に変わったのと同じ現象をみせている。

ここで少し読者の誤解をといておかなければならない。それはシンドゥという名の本当の意味だ。

インドでシンドゥ教が、宗教として発展し定着したのは、ヒミコ時代よりずっと後の8世紀のことである。そしてインドには宗教というコトバはなかった。

だから日本で古代に呼ばれた「シンドゥ」も宗教名ではなくて、シンド人という「種族名」だったのである。

またジャワで「ジャバ」が「ヤバ」に変わった法顕の時代に、そこでは「仏教」はすたれて「神道」に変わり、同時に「ジャマダイ」も「ヤマダ」に変わったという、相関関係がはっきり認められる。

ということは、ここで疑問になった「鬼道と仏教と神道の違和感」の原因は「神道」は鬼道ではなくヒミコの後の人種名だったのだ。鬼道は神道ではなかったのである。

では「仏教」であったのか?まず「ジャ」音を「ヤ」音に変えたものはなんだったのか?

 それを解くキーは、ジャワよりもインドよりも遠く、はるかなアラビア半島の南の果てにあった。それは旧約聖書のソロモン王の話しで有名な、あのシバの女王の国「ヤマン=イエーメン(英語なまり)」である。

これは一見しただけで「シバ」と「女王」と「ヤマ」がトリプルになっているのがわかる。しかしソロモン王は紀元前10世紀の人で、卑弥呼とはあまりに時代差がありすぎる。名前だけが一致する「ソラ似」ではないだろうか。

世界地図をみるとすぐわかるが、アラビアとインドはアラビア海を隔てているだけである。そしてアラビアは航海術では最先進国で、今の航海術の大半はアラビア起源なのである。

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これはシバ信仰の移動コースを教えてくれる。

と同時にその中身も教えてくれる。アラビアは強烈な太陽の照りつける国である。太陽は人間を簡単に焼き殺す絶対神であった。日本では柔らかな日差しにだまされて「恵みの神」だと思い込んでいるが、シバは日本より北の中国でさえ、地獄のエンマ大王にされるほどの「死の神」として恐れられていた神なのだ。それがインドへ入ったあとも、インドの主神として崇拝されたが、それはアーリア人の大移動前のことで、ドラビタ人などの黒人の神であった。

シバと並ぶビシュヌーは、初期の文献では余り重要視されないが、次第に信者が増え、「マハー・バーラタ」の中には、壮大な神殿と神像とが記述されている。

邪馬臺国もヒミコ以前のカリエン人の時代は、シバを中心にしていた「死の神の国」だった。だから帯方郡使から見れば「死者=鬼」で「鬼道」だったのである。

だがヒミコは天照大神だから「天御中主=ビシュヌー」を「天地初発」の先祖と信じ、また彼女自身もヤマタノオロチとあだ名されたビシュヌーの化身であった。

そのビシュヌー神は太陽の光を神格化した穏やかな太陽神であり、ギリシャのアポルローンに相当する神だった。

その性格は、仏教が自教に取り入れて「マハ・ビルチャナ=大日如来」にしたほどに円満、平和な神格の持ち主だった。鹿児島神宮主祭神ヒルコのミコト」はこの「ビルチャナ」のインド方言である「ビルカナ」の大隅なまり「ヒルコ」に一番よく合う。

後世、聖武天皇が、宇佐八幡の技術指導によって、奈良に建造した大仏もこのビルチャナだったのである。ここまでわかるとヒミコは仏に仕える尼だったということがわかる。

 しかし「魏志倭人伝」には「彼女を見たことがあるものはなく、そのコトバはすべてひとりの男子が取り次ぐ」と書いてある。尼なら善男善女に直接「お経」を読んで聞かせ、対面して説教するのが鉄則なのだ。これは大きな謎である。

この謎を解くにはどうしても、あのアショカ王の残した記録までさかのぼる必要がある。BC327年、アレクサンドロス大王がインド・バンジャプを攻略、ナンダ王朝を滅ぼしてタクシラ市に戦勝記念のスツーパを12建設した。そのとき15歳だったチャンドラグプタがアレクサンドロス大王にあいさつに行き、気にいられてBC322年に即位して新しいマガタ国、マウルヤ(孔雀)王朝の始祖になった。

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ガンダーラ美術の中心がペシャワール、スワート渓谷であるのに対し、タキシラは離れた場所にありながらガンダーラ最大の都市でした。タキシラとは「大工」を意味する「タクシャカ」という言葉と関わりがあり、この「タクシャカ」はナーガ族の別称であった。紀元前4世紀のアレキサンダー大王の東征時にはすでに都市国家が形成されており、その後のマウリヤ朝時代、バクトリア時代を通じて栄え、クシャン朝時代には"一大仏教センター"として栄えます。チャンドラグプタの孫であるアショーカ王の時代には、タキシラは仏教の中心地となった。

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シリアのセレウコスは特にマガダを重視して、王女をチャンドラグプタと結婚させた。
義理の親子になったのである。これでマガダとギリシャとの関係がよくお分かりだと思う。
アショカ王はそのギリシャ系王国の三代目の王として、BC274年に即位。
当然彼はインド文明はもちろん、ギリシャ文明もエジプト文明もよく知っていた。彼が世界に広めようとしていた「アショカ仏教」は釈迦の教義というよりは、もっとギリシャ色の濃いもので、エジプトやバビロンの宗教哲学も取り入れた一大総合宗教だったのである。
これがわかれば、ヒミコはなぜ宮殿の奥深くにいて人に会わなかったのかがわかる。
古代ギリシャの、デルフォイ神殿の背後にある洞窟や、イオニアのディディマの神殿の奥深くに、ピューティアと呼ばれる巫女がいて、岩の裂け目などで湯を沸かし、その音から神の言葉を聞き取って男性の神官(サニワ)にそれを伝える。
ヒミコの場合とまったく同じだし、後世の天皇も自分は御簾(みす)の中にいて会いにきた者の言葉は大中小の「納言」という役人がそれを取り次ぎ、天皇のコトバも彼等が取り次ぐという特殊な制度になっていたのである。
 
 
 

 ★memo★

法顕

中国東晋代の僧。399年,六〇歳の頃同学の僧らとともにインド旅行出発し,412年一人海路帰国した。その旅行記法顕伝」(仏国記)は当時インド中央アジア状況伝える重要文献。「摩訶僧祇律」「大般泥洹経」などを漢訳生没年未詳

~~~~加治木氏のブログより~~~

「『八幡教』が生まれた世界宗教史」

言葉を換えると、ヤマト朝廷の権威の源が『八幡信仰』だったのである。

だから全国に3万を超える八幡社があり、それが会社のような働きをもつ「社」の全国組織を形成し、朝廷の名が「八幡徒=ヤマト」と呼ばれてきたのだということが、はっきりわかる。

 では八幡とはなにか?…。

それは「八幡大菩薩」の名が示すように実体は仏教、概観は神道の日本独特の宗教だが、その実体は次のような歴史が産み落した混血児である。

 ① シュメルでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、彼等が神と、その継承者を「シュメル=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、神話の古代国名を生んだのである。

 ② シュメルがスメラになったのは、それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」を「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。

 

 ③ それより前、バビロンに倒されたシュメール人たちは、中国に入って「周」と呼ばれ、殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の名山崇拝となり、それを台湾を「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶギリシャ系中国人・徐福らの「方士」が受け継いで「道教」の体系をととのえた。

 ④ これが秦の始皇帝のとき、徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、それは本来「オリンパス山」を神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だか「ヤマ」で、種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された「貝製装身具」に漢字の「山」と、ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、このためなのである。

f:id:enkusurimizu:20180330185454j:plain広田遺跡より

 ⑤ この地域には、さらに古くからインド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、往来していた。それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、それに今も大量に日本語の中に残っているマレー語やパーリ語やヒンドスタニーの単語が証拠であるし、『記・紀』の神名や人名もまた動かない証拠群をかたちづくっている。

 ⑥ こうしたものが相互に影響し合って次第に融合したものに、卑弥呼当時に最大勢力に発展し君臨したのがアショカ仏教で、その後をこの「八幡教」が継いだことが『魏書倭人章』の卑弥呼・壹與と、『記・紀』の[神功皇后紀]から複元できる。

 ⑦ だから「ヤマン」に対する当て字が「八幡」で、これを「ヤバーナ」と発音したものが、中国から西の広いアジア全域で「ギリシャ人」を指す固有名詞として使われてきたのである。

 ⑧ しかし「八幡」は『大隈正八幡の縁起』に登場する八幡=応神天皇天皇に位を譲った先代の八幡がいて、それが二つの「倭」を生んで、日本の建国史を非常に複雑にしているから、この『倭』を主役にした講義は、その締括りとして、この問題を解明せずに通過することはできない。 なぜなら『古事記』の[神功皇后記]に応神天皇が「イザサ=伊奢狭・和気大神」と名前を取り替えたという話しが載っているからである。

 ※出典:大学講義録05 24~26頁

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