阿片王 満州の夜と霧    1930年代

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(引用)・・・・・P202~

1931年、10月事件は、軍事クーデター成功の暁には、急進派青年将校に理解のある教育総監荒木貞夫を首相に担ぎ上げ、蔵相=大川周明、内相=橋本欣五郎、警視総監=長勇(ちょういさむ)など噴飯ものというほかない新内閣をリストアップしたマンガなみの革命ごっこだった。許斐(このみ)はこのとき、三越の屋上から手投げ弾を投げる役割を仰せつけられていたが、それも実行しないうちにしないうちにクーデタは不発に終わった。

~memo~

許斐 氏利(このみ うじとし、1912年12月16日[1] - 1980年3月5日)は、クレー射撃選手・右翼特殊株主・興行師。隻流館初代理事長。参加したメルボルンオリンピックフィンランドの選手が持っていたサウナを日本に持ち込んだことで、スチームサウナ創始者としても知られている[2]

家系は古代から宗像大宮司世襲した武家宗像氏で、氏利はその分家・許斐氏の末裔にあたる。

1937年、中国大陸に渡り、漢口駐在武官長勇中佐の下で関東軍直属の特務機関員(身分は軍属)として働き始める[12]。このころ、岩田の盟友・伊達順之助から共産ゲリラ掃討を目的に射撃の訓練を受ける[13]。のちには自ら許斐機関を組織し、100名の特務機関員を率いて上海ハノイで地下活動に従事。阿片を使った工作活動を手がけた。

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長勇

日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進む。沖縄戦を戦うがアメリカ軍に追い詰められ、1945年6月23日(22日とする説もある)摩文仁丘の洞窟内にあった司令部で司令官の牛島満とともに割腹自決。

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許斐はその後、北一輝のボディーガードとなり大陸に渡った。

伊達順之助のもとで馬の乗り方からピストルの撃ち方までの特訓を受けた。

伊達 順之助(だて じゅんのすけ、明治25年(1892年1月6日 - 昭和23年(1948年9月9日)は、満蒙独立運動山東自治聯軍に参加した大陸浪人馬賊 

仙台藩伊達政宗の直系子孫。

北一輝大川周明出口王仁三郎などとも親交が深く、1916年張作霖爆殺計画、1919年山縣有朋暗殺計画(共に失敗)等、過激な行動が目立った。

1948年9月9日銃殺刑に処せられた。

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上海には満映理事長の甘粕正彦もよく現れた。甘粕は虹口に自分の息のかかった為替事務所を構えさせ、その取引による差益で巨額の利益をあげていた。甘粕は上海に来ると、必ずフランス租界にあったハイアライ賭博場に足を向けた。そのとき甘粕のご相伴役をつとめたのは、塚本誠だった。

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塚本は著書の中で、甘粕についてこんなエピソードを披露している。

「私はよい3人の先輩に接する機会に恵まれた。そのひとりは満州甘粕正彦さんである。時々上海に見えるがその度ごとに私を夕食に誘われ現地の事情を聴取された。そのあと甘粕さんはドル紙幣の大束を持っては、仏租界のバクチ場であるハイアライフに行かれる。私もお伴していくとそのドルで私にも買えという。私が躊躇していると、「君、人生はバクチだよ」といわれたのが印象に残っている。

甘粕さんは大川周明氏の東亜経済調査室を指導していた。その経費捻出策として由比為替事務所を上海に開いて為替相場をやらせていた。」

塚本はちょうど同じ頃、戦後の人生を決める重要な人物と上海ですれ違っている。

戦後、電通の四代目社長となり「鬼十即」を掲げて電通の今日の繁栄の礎を築いた吉田秀雄である。

~memo~

吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 1963年1月27日)は、日本実業家電通の経営者で、「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。

鬼十則

1951年制定[2]

  1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
  2. 仕事とは、先手々と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
  3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
  4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
  5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
  6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
  7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
  8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚みすらない。
  9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
  10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

社員手帳「Dennote」(非売品)に長らく記載され続けて来た(初出は未詳)。

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吉田が上海に赴任し、電通広告公司を開設したのは、昭和十年の7月だった。吉田はそこを窓口にして、上海で発行されている新聞媒体のほとんどを電通扱いとした。

塚本と吉田の橋渡しをして塚本の電通入りを実現させたのは里見だったという。

P204~

もっとも驚かされるのは、里見が終戦にむけての和平工作に動いていたらしい事実がうかがえることである。

里見は終戦間際、フランス租界の瀟洒な屋敷に住む老三爺(おうじいろう?)という完全なアヘン吸引者と頻繁に会っていた。その会見の多くは小生も同行した。老三爺は広東訛りの中国語をしゃべり、小生にはまったく理解できなかったが、里見はその点完全にマスターしていた。

老三爺と里見の会談は、連日3時間ほどおこなわれた。議題はもっぱら重慶の対蒋介石工作だった。老三爺は太平天国の乱を鎮圧した曾国藩の末裔だった。そんな国民的英雄の血筋を引いていた人物だったから、蒋介石も老三爺の言うことをむげにはできない様子だった。そのうえ、老三爺は湖南の生まれだったので、同じ湖南の生まれで次第に勢力を増していた中国共産党毛沢東とも精神的には結びついていた。

老三爺と通じて重慶側からもたらされた和平の条件は、鈴木貫太郎総理大臣を特使、米内光政海軍大臣を副使として派遣するなら、和平交渉に応じてもよいというものだった。

~memo~

曽 国藩(そう こくはん、拼音: Zēng Guófān嘉慶16年10月11日1811年11月26日) - 同治11年2月4日1872年3月12日))は、中国代末期の軍人政治家は伯函、号は滌生(てきせい)、は文正。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。

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太平天国の乱1851年

洪秀全キリスト教を信じて仲間を集めて、清を倒そうした話

太平天国」というのは、キリスト教に影響を受けた洪秀全が起こした宗教団体でした。
それが、当時の満洲人による漢人支配への反発と繋がり、革命組織に姿を変えていきます。
ちょうどそのころ清は、アヘン戦争のあとで国内が疲弊しており、多くの民衆がこれに賛同しました。

そのため、足掛け15年にわたる大規模な内戦になったのです。

 

 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日慶応3年12月24日) - 1948年昭和23年)4月17日)は、日本海軍軍人政治家 二・二六事件において襲撃されるが一命を取り留めた。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣第42代)に就任した。一時、外務大臣第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切って、第二次世界大戦終戦に導いた。 

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米内 光政(よない みつまさ、1880年明治13年)3月2日 - 1948年昭和23年)4月20日)は、日本海軍軍人政治家。当時の米内のノートは記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決している。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては珍しい勉強法であった。1915年大正4年)2月、ロシア・サンクトペテルブルク大使館駐在武官補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想している。1930年昭和5年)、任海軍中将。鎮海要港部司令官。この役職は「クビ5分前」「島流し」と言われ、米内が赴任した頃は「一週間に半日仕事があれば良い方だ」といわれた閑職であった。米内は「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、読書三昧の日々を過ごし、漢籍からロシア文学社会科学、中学の後輩である野村胡堂の小説まで読み耽ったという。米内の読書法は「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」というものだった。荒城二郎に送った手紙によると、毎日二時間は必ず読書の時間を設け、司令官といってもほとんどやることがなく執務中にも読書をしていたという。

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 これに対して、里見は満鉄上海事務局長の宮本通治に、重慶側から提案されたこの親書を託した。このとき日本側は交渉のテーブルにつくための前提条件として里見の考慮にあったのは、次のような腹案だった。

1.日本側現職内閣の総辞職。

2.撫順炭鉱、南満鉄鉄道、大連埠頭、その他満州各地の大都市の権益譲渡を含めた満州国の消滅。

3.台湾の領有問題について後刻相互に検討する。

4.この条件がのめないときは、日本は首都を満州長春に遷都し、徹底抗戦を辞さない。

だが、宮本通治の出発が遅れた上に、予想だにしなかったソ連軍の突然の参戦もあって、この和平工作は失敗に終わった。

これが事実なら驚愕すべきことである。

易姓革命を繰り返していた中国は、一筋縄ではいかない社会である。一朝事あれば、味方と思っていた者が不倶載天の敵にまわり、敵と思ってた者が千年の知己同然の味方に変わる。

日中戦争下にあって、里見ほどこうした中国社会の有為転変と人心の融通無碍(ゆうづうむげ)さを骨の髄まで知り抜いた男は、おそらくひとりもいなかった。

そういう男だったからこそ、アヘン販売を通じて和平工作を進めるという前代未聞の離れ業が可能となった。

言葉を換えれば、里見の長年の中国生活と、アヘン販売という独特の立ち位置が、世間知らずのエリート外交官にも、無骨さだけがとりえの軍人にも、すなわちエスタブリッシュメントといわれる人間には絶対に真似できない芸当が出てくる背景だった。

興味深いのは、里見が側近中の側近だった徳岡にたいしてすら、和平工作の交渉相手の素性を決して明かそうとしなかったことである。

里見は、右手がやってることを左手に教えるな、という訓戒を自らにきつく課していた。その鉄則を守りとおすことに関しては、たとえ徳岡といえど例外ではなかった。

~memo~

易姓革命(えきせいかくめい)

易姓革命論は実体としては王朝交代を正当化する理論として機能していたと言える。またこのような理論があったからこそ朱元璋のような平民からの成り上がり者の支配をも正当化することが出来たとも言える。これは西洋において長年に渡る君主の血統が最も重視され、ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興す場合すらあるのとは対照的である。また、日本では、山鹿素行などの江戸時代の学者が「易姓革命は結局臣が君を倒すことで、そのようなことがたびたび起こっている中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中華である」と唱えた。