フロイト「モーセと一神教」  

以前から読みたいと思っている著書です。

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内容は、簡単に言えばモーセは実はユダヤ人ではなくエジプト人であり、後にユダヤ人によって殺されたというものです。

 

フロイト歴史学者ではないので、もちろん歴史の捏造を暴くとかそういうスタンスではありません。

とりあえず私はこの著書を読んだ人たちがどのような感想を持っているのかを先に知りたくなりいくつかのブログを読ませていただきました。

その中に興味深いものありましたので、それを引用させてもらいたいと思います。

こちらのブログです。

『モーセと一神教』を読む - Arisanのノート

その中で特に興味深いところを貼ってみます。

(引用)・・・・・・・・・・・・

フロイトが個人心理学における「欲動断念」を、モーセによる「偶像崇拝の禁止」と重ね合わせ、ここに人間の感覚性(欲望)から精神性(理念)への「進歩」というテーマを見出そうとしたという読解は、間違いないもののようだ。

「欲動断念」モデルによる一神教受容の説明

さてここからフロイトは、ユダヤ人たちがなぜこのうっとうしい一神教を、一度はモーセ殺害によって振り払いながら、最終的には保持し続けたのかという、困難な問いに入っていく。この部分は、柄谷の解釈からは離れて素描してみる。

まず、「欲動断念」という概念からの説明だと、答えはこうなる。

欲動の断念には二種類ある。自我が何かを具体的に欲望し続けることが危険だと判断してそれを制御する場合。フロイトは「外的世界の妨害による欲動断念」と呼んでいるが、これは端的にいうと、「駄々をこねすぎるとお父さんに怒られる」ということだ。子どもはこれを恐れて、おとなしくするようになる。だが、これだと、「倫理」や戒律は子どもにとってはたんに「うっとうしい」強制とかんじられるだけなので、こうした一神教の厳格な教えを積極的に守ること、何千年も強固に守り続けるということは生じようがない。

そこでフロイトは、もう一種類の「欲動断念」のあり方を語る。それが有名な「超自我」の形成である。この怖いお父さんのような外部の存在が、内在化されることが生じるというわけだ。それは、「強制」ではあるが、「内部から生じる強制」であると、フロイトは言う(ちなみに、このフロイトの考え方は柄谷の平和憲法肯定論の骨子になった)。この「超自我」の働きによる「欲動断念」で重要なのは、それが自我に「強制」に従う苦痛のみでなく、快感をももたらす点だ。

この欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも招来するのである。(p195)

それは、自分は超自我(父親が内在化されたもの)の愛を値するという誇らしさの感覚であると、フロイトはいう。

権威そのものが自我の一部と化したのち、このかなり快適な感情は、はじめて、独特に自己愛的な誇りという性質を帯びるようになった。(p196)

フロイトがここで言いたいのは、モーセの教えがユダヤの人々に内在化されたことで、それを厳格に守ることは、いわばメタフィジカルな快感となったということだ。だからユダヤの人たちはこの厳格な教えを何千年も守り続けた、という理論である。

(おわり)・・・・・・・・・・・・・・

超自我」という概念が、ニーチェの「超人」思想的なものと呼応するのかと思いきや、全く別物で、ある意味フロイトらしい論理でもあり興味をひきました。

私はいま「アヘン王国」という本を読んでいるのですが、なんとなく「軍部」の人物像というのがこれに少なからずあてはまるのではないかと思うのです。

上からの圧力に逆らえない状況のなかで、うっとうしいとは思いながらも「欲動断念」(自我を押さえ込む)ということをしていると、その思いになんとか折り合いをつけようとする。するとその「欲動断念」(自我を押さえ込む)は外部からの強制ではなく、自分の内側からの「自我を超える」というなんだか立派な精神にも思えるような倫理感にも似たある種のエクスタシーのようなものに変幻するのだという論理なのではないかと自分では理解し、それはこのフロイトが生きた時代のファシズム的な世の中のなんとも気持の悪さを感じてしまいます。

しかし、このゆがんだ「欲動断念」にはやはり反動もあるはずで、押さえられている本来の自我は社会のなかで、上からの目が逃れているところで甘い蜜を吸おうという欲求に勝てないのではないでしょうか。

佐野真一氏の「阿片王国 満州の夜と霧」を読んでいるとそういうものを感じてしまいます。この時代はこういう精神構造の中で歴史が築かれたのではないかと思うくらいです。

さらに興味深いのはフロイトはこの考えにも満足しておらず、さらに追求します。

フロイトはここで「精神分析」という自己の知的・学問的な体系の限界を見出しているということに気がつきます。

精神分析もまた、フロイトという「偉大な父」を創始者とする一個の「世界宗教」(一神教)であり、それ自体「集団神経症」であることを免れないという事実にフロイトが気づいているということだ。

フロイトは、「宗教」という「倒錯」(集団神経症)を、治療の対象としてではなく、自己の思想的・学問的な立場の根底に重なるものであるととらえた。いわば、自己の立場が矛盾と「病的」な混乱の上にある事実を肯定したのである。

(この「宗教」というものをファシズム的な「軍部」にも置き換え可能だと思います。)

また、こういうものを読んでいるとどうしても「ドグラ・マグラ」が頭に浮かんできます。夢野久作フロイトより30年後に生まれていますがフロイトより先に亡くなっています。さて夢野久作フロイトを知っていたのでしょうか。

検索していると「猟奇歌」という夢野久作の短歌集があり、その中に

「何もかも性に帰結するフロイドが

天体鏡で女湯を覗く」

という歌がありました。やはり知っていたのでしょう。

 

↓の論文も参考になります。

http://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/thesis/kokubun-mejiro/KOME_52_07.pdf#search=%27%E5%A4%A2%E9%87%8E%E4%B9%85%E4%BD%9C%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88%27

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~memo~

5つの自然な感情(悲しみ、怒り、羨望、不安、愛)の抑圧

1.抑圧され続けた悲しみ(「泣くな」!と育てられた子ども等)は、慢性的な鬱になる。非常に不自然な感情だ。人々は慢性的な鬱のために人殺しをしてきた。戦争が勃発し国が滅んだ。

2.抑圧され続けた怒り(「ノー!」ということを許されないできた子ども等)は、憤怒になる。非常に不自然な感情だ。人々は怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し国が滅んだ。

3.健全は羨望を抑圧され続けた羨望は、嫉妬になる。非常に不自然な感情だ。人々は嫉妬のため人殺しをしてきた。戦争が勃発し国が滅んだ。

4.抑圧され続けてきた不安(不安はよくないといわれた子どもは、成人後不安をうまく処理できない等)はパニックになる。非常に不自然な感情だ。人々はパニックのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し国が滅んだ。

5.抑圧され続けた愛は所有欲になる。非常に不自然な感情だ。人々は所有欲のために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。

自然な感情が抑圧されると、不自然な反応と対応が生じる。

たいていの人は最も自然な感情を抑圧している。

本来は生まれたときに与えられたその道具を使って、人生をうまく渡っていくべきなのだ。

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自然な感情をバカにしたり抑圧したりすることから、性的な気まずさ、抑圧、恥ずかしさを生みだした。それが機能不全、暴力につながる。

社会全体としては必ず、気まずいことは禁止されるし、抑圧されたことは機能不全に陥る。恥ずかしくないことを恥ずかしいと思わされると、暴力的な行為になるのだ。

こうして誤ったゆがんだ倫理的価値観の形成にむかう。

あなたがたはそういう社会で暮らしている。その社会では記念碑や銅像をつくり、記念切手を発行し、映画やテレビ番組を制作して世界でもっともみにくい暴力行為をたたえたり崇めたりするのに、世界で最も美しい愛の行為のほうは隠すどころか貶めている。

神との対話」第3巻より