伏見の歴史

落合氏が書いておられる伏見宮と私の町から近い伏見市とはなにか関係があるのかしらと思いつつ、今日は伏見の歴史について書いてみたいと思います。

 

★まず太古の伏見は大阪湾が侵入していたと考えられます。

また50~60万年前の東洋ゾウの臼歯や前足の骨なども発見されています。

★深草遺跡(弥生時代

伏見区深草西浦町5丁目(NTT深草別館前)

このあたりの町名も面白く「キトロ町」その北が「ケナサ町」そのまた北が「ススハキ町」で、西に「フケノ内町」。いったいどのような人たちがいたのでしょうか?

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★深草弥生遺跡から西へ約2キロにある鳥羽離宮鳥羽伏見の戦い勃発の地)の発掘現場からは、弥生時代から飛鳥・奈良時代の大集落跡も発見されています。

★5世紀頃の稲荷山西麓には、仁明陵北方古墳、番神山古墳(前方後円墳)大岩山南麓には黄金塚1号墳、2号墳が築かれていることから、伏見一帯を支配した首長が存在したことがわかります。弥生時代に先住したのは、紀氏、土師氏、久我氏などの古代豪族でしたが、古墳を築いたのは4~6世紀に渡来した秦氏ではないかといわれています。

五世紀の中頃、指月森(しげつのもり)あたりに、土器を造ってた人がいて、 「俯見村(ふしみのむら)より 雄略天皇へ、陶工を貢進した。」とあります。

 

★伏見の地は秦一族の拠点であり、大和朝廷にとっても山背における有力な拠点として、ここに屯倉大和朝廷の直轄地)を置いて、土地や人びとを支配していたと云う。

墳頂部には五輪塔があり、桓武天皇皇子・伊予親王の陵墓「巨幡墓」となっている。

伊豫親王は、藤原式家藤原仲成の陰謀の犠牲となって、反逆の首謀者であるとして、母の藤原吉子とともに川原寺(弘福寺)に幽閉され,絶食した後に毒を飲んで自害したとされる伝説で有名。後に親王の無実が判明したらしいが。

ちなみに桓武天皇陵も伏見区にある。どうして伏見にあるのだろう。

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★京都の生みの親といわれる秦氏が伏見深草を拠点としたことが、京都の中で伏見の占める歴史的位置を高めています。

十一世紀の初め、藤原頼通の第四子橘俊綱が、指月森附近に伏見山荘を建てる。
この頃から「伏見」の語が和歌などにも出てくるようになります。

山荘に付属した土地は藤原氏の荘園であったそうです。

巨椋池に面する伏見は、皇族や公家の別荘地としての性格をもちつづけます。
山荘から、指月浦あたりに映る月を酒を酌み交わしながら眺めたのでは…。
宇治川周辺には、白拍子や遊女がたむろしていたのでしょうか?

その伏見山荘も持ち主が変わったり、焼失を経て十四世紀に「伏見殿」として再建されます。

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今では、全く使われなくなった言葉
指月森(しげつのもり)なんですが、
位置的には、外環の観月橋から東へすこし行くと
月橋院というお寺があります。
その北側あたりをさすものと思われます。

かつてここには秀吉が築いた最初の城である指月城がありました。

ところが2年後には大地震でなくなってしまいます。

 

院政の拠点鳥羽殿

白河上皇のあと鳥羽上皇後白河上皇と続き実験を握っていました。鳥羽上皇崩御のあと、崇徳上皇後白河法皇との間で皇位継承争いが起こったのが保元の乱。その後平清盛後白河院を鳥羽殿に幽閉し、安徳天皇皇位につけました。中世という武家が台頭する時代の変わり目に鳥羽殿は拠点のひとつとなりました。

公家回復を目指して起こした承久の乱に破れた後鳥羽院は城南宮に兵を集めましたが敗北、隠岐へ流され院政は幕を閉じました。

ここでなぜ院政ができたのかについて書いておきます。

大川周明著「日本2600年史」という本が最近出ました。

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この本は昭和14年にベストセラーとなりましたが、軍部や右翼により発禁。

戦後はGHQによりまたもや発禁となった本です。

その序文に次のようなことが書かれています。

(引用)・・・・

 平安期末期藤原氏専横時代の日本はほとんど無政府ともいうべき乱脈に陥った。

後三条天皇は政権をふたたび藤原氏の手より朝廷に収められ、白河天皇さらにその遺志を継ぎて、譲位の後にいわゆる院政を創められた。院政は最も人目を惹かぬ方法で、巧みに政権を皇室に回復するための制度にして、吾らはこれによって偉大なる政治的才腕を天皇において見奉るのである。

(引用おわり)・・・・・

院政が幕を閉じ、荒廃した後鳥羽離宮に代わってその壮麗さを讃えられたのが伏見殿(伏見山荘)でした。伏見山荘は白河上皇に献上され、皇室の荘園に加えられました。

後白河上皇はここに壮麗な伏見殿を造営しました。南北朝時代には足利尊氏が擁立した北朝光厳上皇、光明上皇に受け継がれ、両上皇の母、藤原寧子は伏見殿に居住しました。伏見殿は光厳上皇が後に伏見宮家の始祖となる栄仁親王に譲られたものでした。

ここでやっと伏見宮家の始祖がでてきました。

伏見宮家は通常では北朝なのですが、落合史観ではこれが南朝であるということなのです。光厳天皇後醍醐天皇の皇子の護良親王だということです。

ここから伏見宮家は裏の天皇として欧州貴族の血族に入り、外交や軍部に八面六臂の活躍をすることになるのです。

 

その後、豊臣秀吉がこの地に伏見桃山城を築くことになります。

秀吉といえば大阪城のイメージが強いですが、意外なことに大阪城はプライベートな城で伏見城が政権の中枢となったオフシャルな城なのです。

秀吉は全国の大名を集めて伏見に住まわせました。

ということはここは実質日本の首都だったということですよね。

そこに南朝に成り代わった伏見宮が裏天皇となっていたのです。

秀吉などもその配下だったのでしょう。

この後、徳川家康が出ますが、徳川家康の自宅も伏見にあります。

おそらく家康も南朝伏見宮の配下だったのではないでしょうか。

そして明治天皇の御陵もここ伏見にあります。

明治天皇南朝なのでここ伏見にあってもおかしくはないのですね。

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 230段の階段を上ると、鳥居の向こうの円墳の明治天皇陵があります。

ここは見晴らしも良く散策にも良いところです。

杉並木の立派な参道には伏見城に使われた石が並んでいます。

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明治天皇陵の近くには桓武天皇陵があります。

なぜ桓武天皇陵がここにあるのでしょうか。