落合・吉薗秘史3「日本皇統が創めたハプスブルク大公家」  石光真清

石光真清(いしみつまきよ)1868~1942

日本陸軍軍人諜報活動家。明治から大正にかけてシベリア満州での諜報活動に従事した。

石光真清の手記」より

30歳台の真清のスパイ名は菊池正三。

そして日露開戦。

ブラゴヴェヒチェンスクの大虐殺に遭遇して以来、満洲を四方八方に駆け巡って辛酸をなめた。馬賊の賓客になり、洗濯屋になり、ラムネ屋、写真屋、雑貨屋と、千変万化の芸当を演じて、どうやら目的の半ばは達したと信じたいが、われわれの任務にどれだけの効果があったかは判らない。しかし任務は終わった。一同は引き揚げの仕度にかかった。
(『曠野の花』p342)

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石光真清は7月16日の出来事をこう記している。
ブラゴヴェシチェンスク在留の清国人狩りが一斉に行われ、約3千人が支那街に押し込まれ、馬に乗った将校が「ロシアは清国の無謀な賊徒を討伐することになった。お前たち良民はここにいると危険だから安全な土地へ避難させてやる。討伐が済んだら元の家に帰るが良い。…」とふれ歩き、大勢の清国人を引き連れて黒龍江(アムール)沿いに向かう

石光真清の文章をしばらく引用する。
「(将校は)到着すると直ぐ河岸に集め、静かにしろと命令しました。そして銃剣を構えた兵隊がぐるりと取り巻いて……取巻いてと言っても河岸の方をあけたままで、じりじりと包囲を縮めて行きました。将校が馬を走らせて指揮していました。勿論抜剣して……命令に服さん奴は撃ち殺せと怒号していました。えらい騒ぎでした。命令に服するも服さないもあったものではありません。どうしてと言ったって、なにしろ銃剣や槍を持った騎兵が退れ退れと怒鳴りながら包囲を縮めて、河岸へ迫ってゆくのですから堪りません。河岸から人間の雪崩が濁流の中へ押し流され始めたのです。わあっという得体の知れない喚声が挙がるともう全部気狂いです。人波をかき分け奥へもぐり込もうとする奴もいれば、女子供を踏み潰して逃れようとする者、それを騎兵が馬の蹄で蹴散らしながら銃剣で突く、ついに一斉に小銃を発射し始めました。叫喚と銃声と泣声と怒号と、とてもとても、あの地獄のような惨劇は口では言えません。二隊に分けたと言っても全部で二千名近い人間を一束にして殺そうというのです。…子供を抱いて逃れようとした母親が芋のように刺し殺される。子供が放り出されて踏み潰される。馬の蹄に顔を潰された少年や、火の付いたように泣き叫ぶ奴等が、銃尻で撲り殺される。先生先生と縋り付いて助けを乞う子供を蹴倒して、濁流ヘ引きずり落す。良心を持っている人間に、どうしてこんなことが出来るのでしょう。良心なんてない野獣になっていたのでしょうか。子供の泣き顔を銃尻で潰す時に、自分の良心も一緒に叩き潰してしまったのでしょう。…」(中公文庫『曠野の花』p.39-40)

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周蔵は石光とウィーンを目指す。目的は血液型探索である。

上原勇作は草である周蔵をウィーンに派遣させるために石光に護衛とスパイ養成を頼んだのである。

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(引用)・・・

大正4(1915)年7月を以て上原勇作付陸軍特務になった吉薗周蔵は、9月16日に上京、京橋区新栄町五の三の若松忠次郎の東京宅に転入し、牛込区新小川町の若松の持家にアジトを設けた。
輸血には血液型分離法を必要とする旨の大正3年6月8日の具申を採用した上原は、大正5年に周蔵を欧州に派遣することに決めた。
周蔵は渡航準備として帝大医学部教授・呉秀三の講義を受け、英語をも習った後、旅券に久原鉱業技師・武田内蔵丞?の名を借りたのは、鉱山開発の土木部門を視察する名目である。周蔵は、久原鉱業技師・遠藤某の名を借りた陸軍予備少佐・石光真清に護られて、シドニーから南アメリカ沿岸を回り、地球を一周して大正5年10月26日ウィーンに至る。

 台湾総督・明石元二郎から予め、日露戦争当時、明石が欧州に張りめぐらした諜報網に対する紹介状を貰っていた周蔵は、そのルートで下宿を数ヶ所転々とし、やがて知り合った画家エゴン・シーレの従兄弟で医学生のフエビュール・シーレを通じて、ウィーン大学医学部のラントシュナィダー教室に出入りすることが出来た。(5,000円+1,000円(エゴンシ―レの絵の代金)で買収する。(現在の貨幣価値で約5,000万円)。大正6年3月18日までに全部をドイツ語で写し取った周蔵は、大正5年6月に帰朝した。

(引用おわり)・・・・・・・・

 

エゴン・シーレ(Egon Schiele [ˈeːɡɔn ˈʃiːlə]1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリア画家エーゴン・シーレとも。

当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派を初めとして象徴派表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求した

 

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3分でわかるエゴン・シーレ(1) ウィーン分離派の画家、エゴン・シーレのサイコパス的人生とその作品 : ノラの絵画の時間

 ★石光真清の姻戚関係★

石光の次女は東季彦(あずますえひこ)に嫁いでいる。

季彦は親族の吉野郡十津川の郷士東武(あずまたけし)の養子となった。

東武は1889年の十津川大水害に遭った郷民を率いて北海道樺戸郡に移住して新十津川村を築き、「北海道水田開発の父」と呼ばれて衆議院議員に選出された人である。

また石光の妹マツの夫は橋本卯太郎で、その孫が総理大臣となった橋本龍太郎である。

東武(あずまたけし)★

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東は道会議員として政界に、又北海タイムス社を創立して言論界に進出した。明治41年(1908)以来中央政界に身を置き、当選を重ねること10回、政友会に属し予算委員長等各要職を歴任、昭和2年(1927)には農林次官となった。議会においては爆弾的発言が多かったためかニックネームを“バクダン”と呼ばれたという。東の議員在任中特筆すべきことは、明治44年(1911)第27議会において、南北両朝の何れが正統であるかといういわゆる南北正閠論[せいじゅんろん]が起こり、東は南朝正統論を唱え、ついに北朝正統論者を沈黙せしめたことである。実子なきため乾政彦(日大学長・法博)を養子とした。この政彦が石光の次女と結婚する。

http://www.totsukawa-nara.ed.jp/bridge/guide/person/pn_010.htm

石光真清の教訓★p38~

初めて外国で偵察活動をする周蔵に随行してくれた石光から、周蔵が学んだのは偵察術だけでなく、人としての生き方であった。

石光は「絶対に一人の人物に傾倒することをしないように」と教えたが、その理由は

「誰でも人間である以上、自分を第一にするから、いかなる人物も絶対に確実ということはない。だから一人の人格を絶対視してはならない」というのである。

以来、石光のこの教えを守った周蔵は、直属上官の上原勇作にも、その代理の甘粕正彦にもあるいは上原の後継者荒木貞夫にも、完全に傾倒してしまうことはなかった。

もっとも傾倒したのは石原莞爾であったが、後にみるように、石原莞爾にも国際秘密勢力の影響を感じた周蔵は「石原のことも信じていない」と娘に遺言している。

 

~memo~

落合史はややこしいのでこちらのブログも参考になります。

落合莞爾:気に入った本:So-netブログ