國體アヘンの正体 ( 落合・吉薗秘史 2)   北海道開拓とケシ栽培

北海道開拓といえば、黒田清隆榎本武揚が有名です。黒田はホーレス・ケプロンという人物を招き北海道開拓顧問としました。

明治新政府が成立すると、蝦夷地は北海道と改称され、北海道開拓のための中央官庁、開拓使が設置されました。
開拓次官に就任した黒田清隆は、日本をロシアから守るためには北海道開拓が急務として、北海道と樺太にまたがる大規模な開発構想を打ち出します。

黒田は、北海道の厳しい自然を克服できずに失敗した江戸時代の経験から、自然環境が類似し、開拓について豊富な経験を持つアメリカに着目し、農務長官であったケプロン開拓使の顧問を依頼しました。また開拓を担う人材の育成に、アメリカ・マサチューセッツ農科大学学長のクラークを教頭に迎え、1875(明治8)年、札幌農学校を設置します。この農学校の一期生、二期生からは、佐藤昌介、新渡戸稲造内村鑑三など、当時の日本を牽引する人材が巣立っていきました。

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http://www.akarenga-h.jp/hokkaido/kaitaku/k-02/

一般的には上記のような歴史があるのですが、落合史観になるとこうなります。

まず、ホーレス・ケプロンフィラデルフィアにいた小栗忠順の配下である。

(本文引用)・・・・P253

國體の参謀総長でありながら、帝国陸軍に就いた上原勇作の支持で吉薗周蔵は北海道でケシ栽培を広げることになった。

最北端の稚内まで行った吉薗周蔵はこの地こそケシに最適と判断するが、そもそも北海道がケシ栽培に適することを見通したのは榎本武揚である。オランダからアヘン知識とケシの種子を持ち帰った榎本が計画したのは蝦夷共和国のケシ栽培である。その榎本案を採用した開拓長官黒田清隆が、ケシに詳しいフィラデルフィア人脈のケプロンを招き、ケプロンの提案でケシ栽培の中核機関として創立したのが、札幌農学校である。

その教官として、黒田開拓長官がクラークを招いたのは、実に一貫したケシ計画なのである。

北辺防備と樺太開発のために、北海道に内地から植民する必要を感じた明治政府は1886年の「北海道土地払い下げ規則」の公布により、帝室御領地の払い下げを実行することとした。これを受けて、華族や政商、官僚、豪農たちが競って大農場の開拓に乗り出したが、そのほとんどがケシ栽培を意図していたのは国際的な常識に従ったのである。

また、このころ十津川村で大水害が起こり、この水害で水没した奈良県吉野郡十津川郷の村民が新天地を求めて北海道樺戸郡に移住し、新十津川村を創る。

公爵三条実美ら3名の華族華族組合の設立と北海道雨竜農場に対する土地払い下げを申請したのは十津川大水害の翌月で、十津川郷では災害復興に手がつけられない時期だからこの申請と水害との関係はないものと考えられるが、十津川郷民の移住先を雨竜牧場に隣接する樺戸郡に決定したのをケシ栽培との関係と見ると筋が通る。

華族組合雨竜農場への払い下げを決めたのは明治21年4月に伊藤内閣を継いだ黒田内閣である。総理大臣が黒田清隆外務大臣大隈重信で、農商務大臣は黒田の後釜に決まった井上馨が就くまで榎本が兼摂した。明治政体のケシ利用はここからスタートするのである。

(引用おわり)・・・・・・・