國體アヘンの正体 ( 落合・吉薗秘史 2)  徳川吉宗とケシ栽培

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落合氏のこの本がどのような内容なのか楽しみなところで、いったんこの本は置いておいて前回のブログでは、以前読んだ「阿片王 満州の夜と霧」「明治 父 アメリカ」をザッと再読して本文を引用しました。

・・・で今回は落合氏のこの本をまずザッと目を通しました。

第1部は吉薗周蔵の手記の公開と解説、第2部はアヘン概論になっています。

手記のほうは省略して第2部に入りたいと思います。

まず「國體アヘン」とはなんなのか。

(本文引用)・・・・・・

そもそも國體の國體たるゆえんは、決して社会の表面に出ないことである。

したがって國體の見地から行うアヘン利用は、ひそかにそっと行うのである。

アヘンは疲労感を去ることから、日常の食事に混ぜて、適度の間隔で適量に用いた場合は著しい薬効を発揮する。

どういう形で混入するかといえば、さしずめ香辛料であろう。

香辛料の最たるものは「カレー粉」ではないか。

世界各国でカレーパウダーの消費量が最大の国はいうまでもなくインドであるが、2位は日本である。カレーパウダーの主成分とされるクルクミンの薬効は周知で、インド人の発ガン率が8パーセントときわめて低いのはカレーの効用といわれる。

ケシの国のインドで多種の香辛料を混合して作るカレーパウダーにケシ種ないしアヘンの混入をあえて避けるのは不合理であるから、秘密裡に使用していると私は見る。

(引用おわり)・・・・

こういうふうに、国民がしらないところで健康維持、精神面の安定のために日常生活に活かしているということでしょう。これが「國體」というものの基本的な事項のひとつなのかもしれません。

 

☆「本草将軍」と呼ばれた吉宗

江戸時代に入ると、おびただしい量の薬物や砂糖などが輸入され、その代金として莫大な額の金銀が海外に流出するようになりました。そこで吉宗は、国内で自給が可能な体制を整えようと、いくつかの方策を実行し、それが全国的に動植物への関心を高めました。たとえば・・・・

『丹羽正伯物産日記』 丹羽正伯著 写本 1冊 <特1-2086>

吉宗政権は対馬藩を介して朝鮮から薬草などを取り寄せて実体を確かめましたが、この図の黄芩(おうごん)(コガネヤナギ:日本には産しない) もその一つで、後に江戸城で花が咲き、実をつけました。

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『人参耕作記』 田村藍水著 寛延元 (1748) 序刊 1冊 <特1-2983>

江戸の博物家田村藍水は、元文2年 (1737) に幕府から朝鮮人参の実を与えられて試作します。その成果をまとめたのが本書で、右の「朝鮮人参三椏之図」は、種子を蒔いてから5年目に果実が実った状態を描いています

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http://www.ndl.go.jp/nature/cha1/index2.html

また吉宗の改革で「目安箱の設置」というものがあります。

民衆の意見を広く求めるための投書ボックスですね。

(引用)・・・

この目安箱の投書から小石川養生所が誕生。これは、小川笙船(しょうせん)という町医者の提案で、極貧な人を無料で治療する施設で、幕府の小石川薬園の中に設置されました。ちなみに小石川薬園は現在でも小石川植物園東京大学大学院理学系研究科附属植物園)として日本の第一線の研究機関として活躍しています。

(引用おわり)・・・・・

で、ここから落合氏の本文引用です。P237~

中華本部における吸煙の風習は意外に新しく、17世紀の清代にはじまるもののようです。最初の吸煙禁止令は1729年に発せられました。日本では8代将軍吉宗の時代である。

実を言うと、紀州藩が本格的なケシ栽培を始めていたことは、紀州藩の物産書に「芥子菜(けしな)」があることで推定される。紀州でケシ栽培を始めたのは5代藩主で後の8代将軍徳川吉宗である。

小石川御薬園を拡張し内容を充実したため「本草将軍」と呼ばれる吉宗は、紀伊藩主時代に南紀の熊野に薬草園を造り、多くの薬草を栽培していた。

その中には当然ながらケシがあり吉宗は紀北地方で量産を試みた。吉宗が始めた幕府のケシ事業はその後も継続され、維新後にこれを引き継いだのは14代将軍家茂の正室和宮親子(ちかこ)内親王であった。

(引用おわり)・・・・・

こういうことは全然知らなかったのでとても興味深く読みました。

このあと本文に華岡清州という人物が出てきます。

1804年、青洲(せいしゅう)は通仙散(つうせんさん)を使って世界初となる全身麻酔をおこない、60才の女性の乳がん手術に成功しました。

日本以外では、1846年にアメリカでエーテルという薬品を使った全身麻酔による手術が成功しています。

青洲の全身麻酔による手術は、アメリカの手術よりも40年以上前におこなわれていたのですから、青洲の成功は前例のないすばらしいものです。

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・・・で本文引用です。P239

1760年紀伊国那賀郡名手(なての)荘西野山村に生まれた華岡青州は、京都で学び1785年に帰郷して開業したが、手術における患者の苦痛を和らげるための麻酔薬にとりかかり、全身麻酔薬「麻沸散(通仙散)」を完成させた。原料は紀州藩が栽培していた國體ケシで、これを用いた國體アヘンを望む紀州藩は、その開発を密命した青州を密かに支援していたのである。紀州藩青州から「麻沸散」と國體アヘンを莫大な報酬で買取り、その担保として青州藩医として登用したのである。

(引用おわり)・・・・・・

 

~memo~

百薬一話
『第331話』 鎮痛に有効、でも中毒怖いアヘン
から一部抜粋


  実は、日本でケシの栽培が初めて行われたのが津軽だという説もある。日本におけるケシ栽培の歴史に詳しい弘前大学医学部の松木明知教授は、もともとドイツのライン河畔原産であったケシが中近東や地中海に広り、9~10世紀にはアラビア商人によってインド、スリランカからスマトラに運ばれた。スマトラからの南蛮船が日本の若狭に入港してきたのが1412年。このとき、たまたま同じ港に入っていた津軽北前船の船乗りに、南蛮船の乗組員が土産としてケシを渡したのではないかと推測している。 津軽藩ではアヘンを使った秘薬「津軽一粒金丹」を製造していたというから、鑑賞用だった花がいつからかアヘン採取用の花に変わってしまったと考えられる。

津軽藩が築城することができたのは、幕府に報告していない隠し田畑があったからだと聞いたことがありますが、でも、実際は、阿片製の秘薬・一粒金丹で得た毎月100両以上の収入で、弘前城の築城建造費を賄っていたんじゃないだろうか?

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https://plaza.rakuten.co.jp/kkzkj7554/diary/200702190000/

吉薗周蔵の手記にはこの一粒金丹で商売をしていた上田穴太(あのう)アヤタチ出身の上田吉松という人物がでてくるのですが、その子孫が大本教出口王仁三郎(上田鬼三郎)です。

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写真は上原勇作。吉薗周蔵は上原勇作の草(スパイ)でした。

吉薗周蔵に極秘で国内アヘンの栽培を命じました。

上原に吉薗周蔵を紹介したのが吉薗ギンズルという人物で、この人物は一粒金丹の商売もしていたようです。

大きな系図を貼っておきます。

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