國體アヘンの正体 ( 落合・吉薗秘史 2)を読む前に   1930年代の上海&昭和通商と西北研究所

 

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今日は里見甫が宏済善堂(アヘン問屋)をはじめた頃の上海についての本文を引用しておこうと思います。

(本文引用)・・・・・・P195~

当時の上海は、尾崎秀実に代表される男たちが、それぞれの思惑と使命を秘めて諜報合戦を繰り返す情報戦の坩堝だった。スパイどころか、上海は人の命が一番安く、アヘンが一番高いといわれたように、人殺しさえ日常茶飯のことだった。白昼テロに驚く者はなく、血しぶきが飛び散る殺害現場を目にしても、みな魚の目のような無感動なまなざしをくれるだけで通り過ぎた。人心の荒廃と風俗の退廃は20世紀のバビロンというにふさわしかった。見せしめの処刑もあたりまえだった。ジョルジュ・バタイユの「エロスの涙」の中に、囚人を裸にして木に縛りつけ、生きたまま腹や下腹部をえぐりとって市中を引き回す中国の処刑の写真が紹介されている。それと同じことが、いやそれ以上のことが、日常的におこなわれた。

当時の上海を象徴する有名人に鄭蘋如(テンピンルー)という女スパイがいた。

中国人司法官と日本人の母の間に生まれた鄭蘋如(テンピンルー)は、人並みはずれて美しい女性だった。鄭蘋如は近衛文麿の息子で、当時東亜同文書院に留学中だった近衛文隆に近づいた。美男美女カップルが夜な夜な上海を歩く姿は、日本政府を慌てさせた。ふたりの中が日中関係悪化の原因になることを恐れた近衛家では文隆を急遽帰国させる強行手段にでた。

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鄭蘋如(テンピンルー)はその後も敵国日本の情報をとるため日本側諜報機関のジェスフィールド76号のボスに色仕掛けで接触した。それからまもなく鄭蘋如(テンピンルー)は逮捕された。林はこの美女の最後についてこんな生々しい証言を残している。

死刑執行人は中国人官吏でした。鄭蘋如(テンピンルー)に今日は映画を観るから早く支度をしなさいと言って表に連れ出した。用意した車に乗り繁華街を抜け、郊外に差し掛かるとさすがの鄭蘋如(テンピンルー)も気付いて狂ったように泣き叫びはじめたようです。私は前もって連絡を受け刑場に先回りしていましたので、状況はすべて憲兵から聞いております。車が刑場に着きますと確かに鄭蘋如(テンピンルー)は泣き叫んでおりました。車から引きずり降ろされ真四角な濠の前に座らされました。

鄭蘋如(テンピンルー)を座らせた後ろで死刑宣告文を読み上げそれが終わって高等部をすぐ拳銃で撃ちました。ダーンと音が鳴ったかと思うと、身体が前にふっとんで濠の中に入った。まわりの赤土で埋めて処刑は終わりました。

(引用おわり)・・・・・・・・・・

 ↓こちらに鄭蘋如のことが詳しく書かれております。

http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/1_bad2.html

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P28~

1939年、当時陸軍省軍事課長だった岩畔豪雄(いわくろひでお)の命令で「昭和通商」という軍需国策会社が作られた。公的記録には出てこない謎の会社である。アヘン取引と諜報機関の会社である。三井物産三菱商事、大倉商事の三大財閥に書く500万円ずつ出費させスタートしたマンモス商社だった。

太平洋戦争がはじまる半年前1941年政府は民族学研究所設立。

1944年民族研究所とは姉妹関係にあたる西北研究所という研究機関が内蒙古の張家口(ちょうかこう)に設立。

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所長:今西錦司(独自の「棲み分け理論」で有名)

次長:石田英一郎(著書「桃太郎の母」で有名)

梅棹忠夫(「知的生産の技術」の著者)

この方たちはこの研究所のおかげで「学問」のために兵役を猶予され特別待遇を受けた。かつ戦後はアカデミックな学者として有名になった。

この時代軍部と民族研究というのは結びついていて、学者といえども、純粋な学術研究への思いとは別に、軍の宣撫工作や軍事戦略に少なからず寄与したことは否定できなかった。

彼らはみな「昭和通商」の証明書をもらっていた。西北研究所の所員によると、

「昭和通商の証明書は驚くほど効いた。敗戦直後の混乱時、釜山から日本に向かった船も昭和通商の証明書を見せると、最敬礼で乗せてくれた。列車も昭和通商の証明書でタダだった」

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磯野富士子氏も夫とともに民族調査にモンゴルに行った人だが、とても謙虚な方だと思います。

(引用)・・・・・・・・・・・

もちろん、私たちがあのような調査を行うことができたのも、内モンゴルが日本の占領下にあったからこそであった。個人的には政府や軍部とは全く無関係な研究のつもりであったが、西ウジムチンに入ることができたのは、その土地の「日本人顧問」の方々のお世話を受けたからに外ならない。あの方々にしても、主観的には、モンゴル人のためにも、日本の指導が必要であると信じておられたのであろう。
 この本に出てくるモンゴルの友人たちが、私たちをどう見ていたのかは、知るすべもない。ただ、一つの国が他の国を直接に、あるいは間接的にでも支配している場合には、それぞれの国に属している個人の間の友情は、本当に成り立ちえないことを痛感するとともに、あの人々が対日協力者としてひどい目にあわなかったことを切に願うばかりである。

 

 また「日本にかぎらず、以前の民族学調査というものが、多く植民地支配の副産物であったことは否定できない」との言も付け加えられている。このような言葉は今西錦司梅棹忠夫からは伝わってこないものである。

(引用おわり)・・・・・・・・・・・・・・・

岩畔 豪雄 (いわくろ ひでお)

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満洲国建国、陸軍中野学校設立、紙幣偽造、日米開戦回避交渉、インド独立運動―。舞台裏では何が起きていたのか。関東軍参謀、陸軍省軍事課長などを歴任し、昭和陸軍の謀略を一手に引き受けた将校が明かす裏面史。