「二人で一人の明治天皇」松重楊江著 第2章

いよいよ第2章 孝明天皇は毒殺されたのか に入っていきます。

落合氏は明治天皇のすり替えはあったが、この説は却下されております。

今回は、まず本書にでてくる参考記事を引用するにとどめておきます。

1.まず、尾崎秀樹氏の「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」より

尾崎 秀樹(おざき ほつき、1928年昭和3年)11月29日 - 1999年平成11年)9月21日)は、日本文芸評論家ゾルゲ事件の研究や、大衆文学評論に尽くした。

ゾルゲ事件尾崎秀実は異母兄。

(本文引用)・・・・・・・・・

孝明天皇がその生涯を終えたのは、慶応2年(1866年)12月25日のことだ。

死因は疱瘡とされた。29日になって公にされた。

御陵は泉涌寺だった。

宮内省の編纂した公式記録である「孝明天皇紀」や明治天皇の外祖父にあたる中山忠能(ただよし)が残した「中山忠能日記」などによって、天皇の死に至るまでの経過をある程度たどることができる。それによると発病は12月12日だ。天皇はその前日、風邪気味だったのをおして、御神楽を見るために出御した。寒さはそれほど厳しくなく10日は快晴で春のようにあたたかく感じられたので、油断したのかもしれない。

11日は雨が降ったが寒くはなかった。しかし夜の7時から11時ごろまで内待所で過ごされ、その前に沐浴されたのがさわりになったのか翌12日になるとひどい発熱で典薬が診断にあたり発汗剤などを献じている。

孝明天皇紀」ではこの12日~15日までがなぜか欠落しており16日に飛んでいきなり「天然痘を患い給う」となるのだ。

(引用おわり)・・・

このあと毒殺説を疑った文章になっていく。尾崎氏のように毒殺説を唱える人は多かったようである。

(引き続き 尾崎氏の引用)・・・・・・・・・

2.「湛海僧正日記」

護浄院(上京区荒神口通寺町)は後陽成天皇以来朝廷の信仰は厚く、常に僧正は参内して加持祈祷をおこなった。朝廷との交渉の深い寺である。

私は「中山忠能日記」を調べている間に、この寺の湛海僧正が祈祷に招かれたことを知って昭和28年11月7日、立命館大学教授奈良本辰也氏と共にこの寺を訪問し、古文書を借覧して、この日記を発見した次第である。「主上御疱瘡に付き、御祈祷御直加持裁仰せ付け候御届書」と表紙に書かれていた。

(中略)

特に記しておかなければならないことは、昭和17年京都大学教授赤松俊秀氏が、真言宗誓願寺に調査に出かけ、塔中の大雲院において、やはり「中山忠能日記」に出てくる加持祈祷で宮中に招かれた「上乗坊の日記」を発見した。その12月25日の条に「天皇の顔には紫の斑点があらわれて、虫の息で、血を吐き、また御脱血」という記事が書かれていて、一同は非常に驚き尋常の死に方ではないという強い印象を受けたという。

しかし不思議なことに「孝明天皇紀」は25日の午後11時、天皇が息を引き取るまでの最も重大な時期の容態についての典医の報告や「中山日記」にあるような御脱血の記事などは引用せず前述のように25日の公報の中途で打ち切っている。

疑わしい病状の記事を削除しているのである。

(引用おわり)・・・・・・・・・・・

その他いろいろな人が天皇暗殺説を出している。

(引用)・・・・・・・・・・・・・

3.戦後いち早く歴史家のねずまさし氏が、孝明天皇は病死ではなく暗殺であることを学問的に論証した。ねず氏は、「孝明天皇は病死か毒殺か」(「歴史学研究」173号所収)で概略次のように述べている。

意訳概要「岩倉具視の義妹、堀河紀子が宮中女官として入っており、彼女が加担していたことは容易に推察される。典医によって調合された痘瘡の薬が、堀河紀子女官の手を経て天皇のもとに運ばれた。その間に、そっと毒物が混入されたと考えられる。その後、彼女は、口封じの如く薩摩と思われる手によって殺害されている」。

4.次に、天皇の最後の病床に立ち会った宮廷医師、伊良子光順の曽孫に当たる伊良子光孝氏が、光順の手記について発表した。次のように指摘している。

意訳概要「日記の中には、毒殺ではないかと疑っているような表現があります。私も医師であり、その立場から手記を明細に検討した結果、砒素系毒物による急性中毒症状であると診断せざるをえない。(石見銀山あたりの)亜砒酸である可能性が高い。死因を痘瘡だとすると、痘瘡が殆ど全快した段階における様態の急変、異常な症状を説明することが出来ない」。

 

5.アーネストサトウは、当時、日本に駐在していたイギリスの外交官であり、「日本における外交官」と云う日記を残している。「一外交官が見た明治維新上・下」( 訳/坂田精一、岩波文庫、1960年初版)がこれを紹介している。

「噂によれば、天皇陛下天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私(アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。

6.天皇急刺殺説を裏付ける侍医(春耕)の証言考

それによれば慶応2年(1866)12月某日夜半過ぎ(この年月は父の誕生と同年同月であり、その手記を読みながら、父はそう言ったので、その時の父の口調まで記憶にある)祖父春耕は突然、激しい門戸を叩く音に夢を破られた。家人が出てみると、閑院宮家からの急使で直ちに伺候せよの事である。

 何らかの椿事によって負傷者の生じたものと考えた春耕は、所要の器具を用意し、慌しく迎えの駕籠に乗った。ところが、意外にも駕籠の行く方向が、いつもと違っているようなので、小さな覗き口の垂れを上げて外を見ようとすると、外部からしっかりと閉めつけられている。駕籠際について小走りについてくる者に不審を尋ねても何の返事もない。幕末擾々たる折である。不安の念にかられながらも自分の職業を考え、何人かが秘密の治療を必要として宮家の名を騙ったのであろうと判断した。

 駕籠はやがてどこかの門内に入ると見えて地下に下ろされると、思いの他城代な玄関である。そこに待ち受けていたのが、宮家において数回顔を合わせた事のある公卿の一人であったので、春耕はホッと一安心した。

 しかし、その公卿は春耕に一言の質問も許さず、手をとる如くにして長い廊下を導いていった。幾度か廊下を曲がるうち、それが明らかに御所である事を知って愕然とした時、春耕は広い座敷の奥の小屋に導き入れられた。見ると座敷の中が5寸程高くなっており、そこに寝具が敷かれ、40には未だ若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥していた。その周りに5,6人の人が、心も空に立ち騒いでおり、傍らに、熟知の同業者が顔面蒼白となって座している。

 医師としての職業本能から物問う間もなく、横臥する人の傍らににじり寄ってみると、白羽二重の寝衣や、敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至るまで、赤黒い血汐にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下し様も無い程、甚だしい出血に衰弱しきって、只最後の呻きを力弱く続けているに過ぎない。

 春耕は仔細に調べた上、絶望の合図をした。絶対に口外を禁止された上、再び駕籠に厳しく閉じ込められて自宅へ戻された、春耕が手記を認めたのはその直後であるらしい。甚だしく興奮した筆到で、はっきりと上記貴人を「お上」と断定している。彼の連れて行かれた所が、まことに御所であるとすれば、周囲の人々の態度から見て、それ以外ではあり得ないと見たのであろう。

 又、かの傷は恐らく鋭い槍尖で斜下方から突き上げられたものと断定している。と同時に、自ら疑問を提出して、当今いかに乱世の時代とはいえ、天子が御所内においてそのような目に遭う事があり得ようか、もしあり得べくんば、後架(便所)に上った後、縁側で手を清めている時、縁下に潜む刺客が下から突き刺したものであろうか。到底思議すべからざる椿事、畏るべし畏るべしと結んでいた。

 

(引用おわり)・・・・・・・・・・・・・・

落合氏は暗殺説はことごとく否定されておられます。