「二人で一人の明治天皇」、松重楊江著 第1章

 

落合氏は昔、鹿島昇氏の天皇入れ替え説に驚愕し、当時高額だったにもかかわらずその本を読んだとのこと。確か3万円だったとか・・・・・。

私は今回その鹿島昇史学を引き継いだ松重楊江氏の「二人で一人の明治天皇」という本を読んでいる。

☆鹿島 曻(かしま のぼる、1926年[1] - 2001年4月24日[1][2])は、日本弁護士、在野の古代史研究家。

1926年神奈川県横浜市に弁護士を父として生まれる[1]早稲田大学法学部在学中に司法試験に合格し弁護士になる。弁護士業の傍ら、古代東アジア史、日本史の研究を進めて、独自の史観を展開し、多数の著作を発表した。

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第1章を読む

日本は単一民族国家ではないということはもうすでに多くの人が知っていると思います。中国だってずっと漢民族であったわけではありません。

著者は「日本書紀」は百済亡命政権が作ったシルクロード史および韓半島史の和訳。

中国の歴史書である司馬遷の「史記」はオリエント史およびシルクロード史の漢訳であると書いておられます。おもしろい表現だしなるほどと思うところも多々あります。

 

本文はアレキサンダーの頃にさかのぼって書いてあります。

そういえば「日本書紀」には敦賀にツヌガアラシトという人がやって来たという箇所があります。「角がある人」という意味でこれはアレキサンダー大王を意味する単語だという説があります。アレキサンダーはいつも頭に羊の角をつけていたのでツルカルニンというニックネームをもっていたという話しも読んだことがあります。

アレキサンダーはユーラシアをほぼ制覇しましたからその末裔たちが国をつくっていったとしても不思議はありません。

言語学者の加治木義博氏は卑弥呼ギリシャ系のカリエン人であるという説を打ち出しています。こちらもなかなかおもしろいし私は支持しております。「霧島」というのは「ギリシャの国」という意味をもってるそうです。

(紀元前アレキサンダーによってマレーシアからベトナム雲南までがガレリイナとよぶギリシャ植民地で、そこから古代日本人は渡来してきている子孫が今も国民の85%ゆえ、日本語にギリシャ語が混入し使用されているという説もあります)

さて話しを戻します。松重氏は古代史に関してどのような見解をもっておられるかというと、

(本文引用)・・・・・・・・・・

前331年マケドニア王アレクサンダーはダリウス3世率いるペルシャ軍を撃破、自らアジアの王としてインダス河畔に至ったが、いったん引き返してスサに凱旋し、空前のアレキサンダー帝国を形成して大ヘレニズム文化の基礎を築いた。

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前324年、バクトリアに遠征してギリシャ人の植民地を作り、統治者として知事セレコウス・ニカトルを置いた。本隊はさらに東進して中国大陸を侵略して殖民都市洛陽、長安を建設。その後インドに転進していく。

前323年アレキサンダー病死。帝国は分割支配されることになった。

前280年、セレウコスのあとグレコ・バクトリア王国ができ、アンティオコスが王となった。

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前256年、バクトリア知事ディオドトスが再びクーデターによってグレコ・バクトリア国を建て、ディオドトス1世と称した。その後オリエント混乱のためギリシャとの連絡網を失い孤立。ディドトス1世はペルシャユダヤからの亡命者と共に中国大陸に至り「秦」を建てる。

前221年、ペルシャ軍団を率いて中国統一に成功すると自ら「秦始皇帝」を名乗り、秦帝国を建設した。が、そのとき自らのオリエントの歴史を漢訳して中国として写しかえることにし、それまでの史書をことごとく焼き捨てた。

これが「焚書坑儒」の真相である。

秦王は抵抗した儒者たち(孔子孟子の子孫)を生き埋めにし、何千年来の本当の中国史は抹殺され「秦本紀」(「史記」の原本)がつくられた。

前210年、始皇帝が亡くなるとバクトリアの将軍エウチデムス(項羽)は本国バクトリアから2世皇帝胡亥(こがい)を追って洛陽で殺し(前207年)翌年、3世皇帝子嬰(こえい)を廃して秦帝国を滅ぼし、大秦帝国の国王になった。

前202年、項羽は中国を法治国家とする困難さを知ってバクトリア本国にひきあげ、インドに転進した。

その後、主人がいなくなった国を横領した劉邦が「漢」を建てて高祖と名乗り、秦帝国の遺産をそっくりわがものにした。

こうして史上はじめて中国大陸に漢民族が誕生した。

司馬遷の「史記」は以上のような真実の歴史を隠すために漢王室の依頼によってつくられた「偽史」である。ちなみに司馬遷は宦官にされ、子孫は残されていない。

日本列島のその後の歴史も事情は同じであった。

663年、白村江での敗戦後、百済の王族や武士たち4万人が倭国(九州大宰府)に亡命した。そのあとを追って九州へ侵入した唐・新羅連合軍は倭国占領体制を敷いたが676年、新羅高句麗を滅ぼすと唐は朝鮮半島から撤退した。

倭国は唐・新羅の郭務悰(かくむそう)と新羅皇帝文武(ぶんぶ)の倭国総督支配に服していたが、やがて九州の倭国と近畿の秦王国を併せて「日本国」とすると列島全体を植民地として支配していった。これが奈良朝廷の実体である。

694年藤原鎌足(郭務悰)の系譜に入った不比等ユダヤのシメオン族の族長)は「ホツマツタエ」を種本として「日本紀」を作成した。

その後藤原氏は日本貴族の主流となる。

(本文引用おわり)・・・・・・・・・・・・・・・・

この松重古代史観は「契丹古伝」をベースにされているようですね。

おもしろいブログ記事がありましたので貼っておきます

https://ameblo.jp/tsukioto2011/entry-11391175392.html

さて次へ進みます。私の町には百済王神社大阪府枚方市中宮西之町1-68)があります。その神社は敬福の宮でした。

 

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大仏の仕上げに使う金が不足していて、聖武天皇がノイローゼ気味になっておられた 時、敬福が金900両を献上したのを機に従三位へ七階級特進し、宮内卿兼河内守に任命されたという経歴の持ち主です。

 

(本文引用)・・・・・・・・・・・・・・

百済王敬福(きょうふく691~766年)と光明皇后奈良時代聖武天皇皇后藤原不比等県犬養橘三千代の子)が結ばれて生まれた3人の皇女☆ (P31~)

二人の間に生まれた皇女

1高野姫(後の46代孝謙天皇・48代称徳天皇

高野新笠(たかののにいがさ・桓武天皇の生母)

井上内親王(49代光仁天皇の皇后)

高野姫に寵愛された道鏡は766年天皇と同じ位の法皇となり、翌年法皇官職を置いた。道鏡天皇家百済政権復興のため秦氏の協力を得て「古事記」「日本書紀」の改竄を始めた。

この新しい記紀称徳天皇によって承認されその結果新羅皇帝の子孫でなくても、すなわち百済王の子孫でも天皇になれることが認められた。

そして道鏡と高野姫の間に生まれた桓武天皇の平安王朝がはじまるのである。

百済人たちはもはや故国に帰る望みを絶たれていたため、百済史を日本列島史に借史して自分たちが縄文・弥生の倭王であったと歴史偽造をおこなった。

これが後の南北朝時代(1339年)北畠親房が著した「神皇正統紀」の「桓武条」の焚書改竄の実体です。

(本文引用おわり)・・・・・・・・・・・・・

 

これはすごい説ですね。桓武天皇の父が道鏡!?道鏡天皇家って!?

この説は謎です。。。。。

著者はこれを明治維新の「南朝革命」に対し古代の「南朝革命」としております。

うーむ。。。。少し調べてみる必要があります。。。

いろいろ調べると49代光仁天皇というのはどうも道鏡の兄のようです。

となると光仁天皇桓武天皇の父ですから、道鏡の兄が父だったということになりますね。

↓の記事がありましたので添付しておきます

百済王氏のなかではただ一人文鏡だけが出自不明となっているが、文鏡は道鏡が法王になった時に出羽守となり、その後任として、百済王敬福の子の武鏡が出羽守をついだのであった。筆者は従来から、そして本書において、敬福の子供である武鏡に、文鏡と道鏡という兄弟があって、その文鏡が光仁になったことを考証した。のちの後醍醐天皇明治天皇に始まる南朝天皇家百済王敬福の子の文鏡が光仁として作り上げたものであって、日本の天皇家百済人亡命者であった。日本人は長い間、朝鮮人の子孫を生き神様として奉っていたのである。道鏡の歴史偽造は、自分が天皇になるために、その遠祖である百済王仇首(きゅうしゅ)、実は扶余王仇台(きゅうだい)を神武天皇として、日本史の始めにおいたことに始まる。仇台は伊都国の王として日本に渡来し、公孫氏と扶余の連合軍によって邪馬壱国を作った。仇台妃は公孫氏(こうそんし)の女で、それがヒメタタライスズ(神武天皇の皇后)になり、中国史卑弥呼になったのである。(引用おわり)

 

おそらくわが町枚方(昔の交野市)には桓武の時代は百済人がたくさん居たはずです。

王仁(わに)博士の墓もあります。近くの山田池公園平安時代につくられました。

妙見神社には桓武天皇百済王敬福がたびたび来ていたようですし。

禁野町という区域は平安時代貴族しか入れない遊び場の名残です。

しかし道鏡が捏造に関与していたなんて。。。