「国際ウラ天皇と数理系シャーマン」 中世の「非人」と江戸時代の「非人」P59~P64

 

後醍醐天皇と僧文観が建てた「大塔政略」

<この章のポイント>

後醍醐天皇と文観の鋭い経済感覚により、日本は貨幣、商品経済が経済構造の基盤になると早くも察知していてさまざまな社会制度の変革をおこなった。

経済活動の底辺を担う主体が農民から無籍非農業民(非人)に移行するとの「非人史観」に立脚し、流通、公共工事、葬送、芸能などの非人の活動する経済分野、すなわち「非人経済」を、田園耕作、墾田開発に重きを置く「荘園経済」に対立、拮抗するものとこの時期から認識していた。

本文引用~

鎌倉時代に入り、南宋帝国および元帝国から流入する銅銭により、貨幣経済が急速に浸透しつつある時勢を凝視した文観は、貨幣使用により活発化した物資の取引が、商品の生産と流通を促し、これに関る非人(無籍非農業人)の生活が格段に向上し、さらに進展を遂げることで社会を大きく変えつつある将来を洞察しました。

荘園よりも荘園を取り巻く外側にあって散所とか別所と呼ばれた地区や、物資と旅客が行きかう街道を根拠とする非人(非農業民)社会のほうが構造的に変化していることに注目したのは文観と後醍醐天皇だけではありません。宗教界では鎌倉新仏教がまさにそれで、密教全盛時代の荘園依存と鉱物資源採取による寺院経営から脱皮するために大衆による個人献金に収入源を求めたのです。

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「非人」とは

非人といえば「江戸時代の非人を連想するから、その言葉は無用にせよ」という勧告をうけた私(落合氏)は次のように主張しました。

これは、古代・中世の非人を歴史学会が国民に正確に説明していないから生じた認識の歪みであるから、正すべきは史学界のその態度であって、非人という語の使用ではない。

非人(ひにん)は、主に、

  1. 日本中世の特定職能民・芸能民の呼称であり、次第に被差別民の呼称となる。
  2. 江戸時代賎民身分の呼称である。

中世の非人をより詳しく理解するにはこちらが非常におもしろいです。

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非人は清めを、遊女は「好色」を芸能に
網野史学が説く職能民の多様な姿と生命力

非人や芸能民、商工民など多くの職能民が神人(じにん)、寄人(よりうど)等の称号を与えられ、天皇や神仏の直属民として特権を保証された中世。彼らの多くは関所料を免除されて遍歴し、生業を営んだ。各地を遊行し活動した遊女、白拍子の生命力あふれる実態も明らかにし、南北朝の動乱を境に非人や遊女がなぜ賤視されるに至ったかを解明する。網野史学「職人論」の代表作。

現代のわれわれが、職人の見事な腕前に「神技」を感ずるのと同様、このころの人々はそれ以上に、職能民の駆使する技術、その演ずる芸能、さらには呪術に、人ならぬものの力を見出し、職能民自身、自らの「芸能」の背後に神仏の力を感じとっていたに相違ない。それはまさしく、「聖」と「俗」との境界に働く力であり、自然の底知れぬ力を人間の社会に導き入れる懸け橋であった。――<本書「序章」より>

 最後に落合氏が書いておられる「非人」の古代からの形成プロセスを簡単にまとめておきます。(「奇兵隊天皇と防長卒族」P83~を要約)

大和朝廷以来、列島に渡来して来た民族は朝鮮系エヴェンキと倭族が混血した韓族である。彼等は北方騎馬民族に支配されていた。半島の南端にいた韓族は古墳増築のため

単純労働者として多数渡来。

当時のスーパーゼネコン土師氏(はじし)の配下で働く。

しかし巨大墳墓が造成されなくなると、彼等は職を失い無籍の非農民となる。

また律令制で公田耕作を拒否した百姓と混じり「非人」と呼ばれる雑役民となって

都市周辺で、雑役、行商などに従事。やがて宋銭の流入にともない貨幣経済が勃興すると、散所(さんじょ)と呼ばれる集住地区に居た「中世の非人」たちは貨幣経済の主たる担い手となっていくのです。

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(memo)~土師氏とは

出雲氏と同じ天穂日命の後裔である野見宿禰を始祖とする古代氏族。
垂仁朝に埴輪を制作して殉死に代えた功により野見宿禰は土師職に任ぜられた。

②筑紫[ちくし]で亡くなった来目皇子くめのおうじ](聖徳太子の弟)の仮の葬儀をするために娑婆[さば]に送られた土師猪手[はじのむらじいて]がそのまま居着いた後の子孫だと言われています。周防国府すおうこくふ]の役人中にも名前が見られ松崎天神まつざきてんじん]をつくったのも土師氏です。

概要
天穂日命(あめのほひのみこと)の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。
古墳を作ったり葬送儀礼にも携わった。
土師氏を渡来系とする説もある。

本貫地
河内国志紀郡土師里(現在の藤井寺市羽曳野市付近)。
修羅の出土した三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついたとされる。

修羅とは材木などを積んで運ぶ運搬機のこと。

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事績

垂仁7年
大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。
野見宿祢当麻蹶速を殺して、その結果、天皇当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えた。
そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた。

垂仁32年
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。
それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談した。
野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを天皇に奏上した。
天皇はこれを非常に喜び、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとある。
当時も技術的には出雲が先進であったことを示唆する。

桓武
カバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていった。

道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師氏の根拠地であった。

大阪府藤井寺市道明寺一丁目14番31号

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木造十一面観音立像 - 平安時代初期、9世紀菅原道真

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そういえば、土師氏とよく似たスーパー土木技術&測量集団である秦氏という氏族もいるが同族なのであろうか?落合氏はこういう系統の古代氏族を、まとめて「数理系シャーマン」と呼んだのでしょうか?シャーマンと呼んでるのは呪術なんかも取り仕切っていたからでしょうか?