「国際ウラ天皇と数理系シャーマン」秘密勢力の正体は邦家親王:鎖国当時誰よりも国際情勢に通じてたのは天皇だった!

伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう、享和2年10月24日1802年11月19日) - 明治5年8月5日1872年9月7日))は、江戸時代幕末日本皇族伏見宮第20代および第23代。伏見宮貞敬(さだゆき)親王の第1王子。崇光天皇の男系14世子孫。

 

天保13年(1842年)隠居する。親王は出家し禅楽と号する

 

f:id:enkusurimizu:20180102215932j:plain

 

久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年2月27日1824年3月27日) - 明治24年(1891年10月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の皇族伏見宮邦家親王の第4王子

f:id:enkusurimizu:20180102220002j:plain

 

秘密の国際天皇だった伏見宮家では上記のふたりが重要だと落合氏は書いておられます。私はふたりともはじめて聞きました。本当に知らない人物がたくさん出てきます。

 

邦家親王は幕末期、伏見宮家の家長でした。

 

天皇と国事を分担した伏見殿の専門は海外事項です。国内事項としても

測量機関及び諜報機関を配下に置いていたことは間違いなくこの両者は諸国

の自由移動が許されていた。伊能忠敬もそのひとりです(P36)

また歴史的に有名な「安政の大獄」も邦家親王が裏で働きかけたものであると書かれています。

今読んでいる「奇兵隊天皇と防長卒族」の中の一節より引用いたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

P28~

人の生死という重大事実を偽装するのはきわめて異常な行為ですが、あえて行ったのは「安政の大獄」が容易ならざる重大事だったからです。

水戸斉昭と三条実萬に偽装死を命じたのは邦家親王しかありません。

なぜなら井伊直弼とはそもそも邦家親王が生来の力量を見込んで井伊家に入れた名和氏出身の男子だからです。将来の彦根藩主として井伊家に入籍された井伊直弼は「部屋住み」の身分を利用して風流を装いつつ、しばしば伏見殿の関係者と会って諸分野にわたる帝王学を学んでいたのです。

1850年、いよいよ彦根藩主に就くことになった井伊直弼は邦家親王朝彦親王の前で一命をかけて奉公することを固く誓ったといいます。

この会見は京都で行われました。目的は「安政の大獄」を実行させることです。

来るべき開国に対応する国内の政治、社会体制の変革を最終目的にした場合、その前段として反動政策を試験的に実行することがあります。

すなわち「後ろへひっぱって勢いをつける振り子の原理」を社会事象に適応するもので

、これぞ古来帝王学の秘訣と推察されます。

 

この落合氏の情報はどこかというと、直々に宮内庁のとある筋にお伺いをたてているそうなのです。

本当に事実は小説より奇なりですね。

 ☆名和氏と南朝

名和氏は悪党と呼ばれ海運業で名をなした氏族。自称村上海軍(村上源氏)。

f:id:enkusurimizu:20180103112403j:plain名和氏家紋

名和長年の活躍

 鎌倉末期、倒幕の謀略を繰り返した後醍醐天皇は、元弘の変によって隠岐に配流された。元弘三年(1333)、天皇隠岐の配所から脱出し、伯耆の有力者長年を頼った。
 後醍醐天皇が名和湊にたどり着いたことを知った長年は、天皇を援けるべきか否か迷ったと伝えられる。事実、天皇に味方した楠木正成が籠城する赤坂城を幕府軍が攻撃したとき、長年は嫡男義高と弟の高則を攻撃軍に参加させている。さらに、天皇を追撃する隠岐判官佐々木清高の勢力も名和一族だけではあたり難いものがあった。そのような情勢下にあって、長年は天皇に味方することに決し、天皇を船上山に迎えたのであった。この長年の決断が、名和氏の名を南北朝史に刻むとともに不朽のものとした。

☆部屋住みとは☆

江戸期においては、「部屋住み」という言葉には、特別な意味がありました。

武家に生まれた者は、大身であろうと微禄であろうと、家督を継いで一家の主(あるじ)とならなければ、一人前扱いをされませんでした。

しかし長男であれば、いつかは父親の跡を継いで、一家の主となることができました。

たいへんなのは、次男以下です。婿養子の口がなければ、いつまでも「部屋住み」の身分のままでいなければなりません。

ようするに生涯ニートのような存在なわけです。お嫁さんもろくに娶ることはできなかったようです。

・・・・・・・・・・・・・・・

光格天皇学習院設立(P52~)

学習院の創設は光格天皇の御宇(ぎょう)にあたります。

公家子弟の教育機関として平安時代の「大学寮」の再建を図ったことは周知です。

ここで認識すべしは光格天皇ナポレオン戦争後の欧州情勢を幕閣の誰よりもよく知っていて、列強がわが国に開国を要求してくることを、世界史上の必然として理解していたことです。

その上で、これに即応する国内体制を建てること、その際に必要な人材を育成する高等教育機関の設立を望んだ光格の対外姿勢は積極的だったのです。

こういうと「当時の鎖国日本では、幕府さえオランダ商館の情報に頼っていたのに

、まして京都御所の奥で時代遅れの公家の囲まれていた天皇に世界情勢などわかるはずがない」と言い出すのが史学界で、そもそもこれが大間違いなのです。

これは平成の今日まで一貫していえることなのです。

☆memo☆

今上天皇の退位をめぐる有識者会議の最終報告書が、安倍首相に渡された。退位の時期は2018年中となる見通しで、その際には退位の儀式も検討されているという。実現すれば、江戸時代の光格天皇以来、6代ぶりの天皇退位となる。その光格天皇が退位したのは文化14年3月22日のこと。この日は、西暦では1817年5月7日で、ちょうど200年前のきょうにあたる。(2017 5 /7)

https://www.excite.co.jp/News/society_g/20170507/Bunshun_2348.html