この章もかなり私にはむずかしくすべてを理解するには別の著作も読破しないと詳細がわからないのだなと思いました。が結論を言えばP28 に書かれているのがポイントかと。
引用すると、
真相は「落合秘史・南北朝」で明らかにしたように、建武の親政の際に南北両統の首脳が
密かに合意して『護良親王の王子を、系譜上で付け替えて光厳天皇の皇子とした」のです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用おわり
どういうことかというと、簡単にいえば北朝もこのときに南朝になったということだと思えばよいのです。
私たちが歴史で習った南北朝の系図は図のようなもので、南朝は99代後亀山天皇で途絶えて以降は100代目後小松天皇の北朝だとされているのです。
が、落合秘史によると、北朝の光厳天皇は実は早世したとされる後醍醐天皇の皇子の護良親王だというのです!これは驚きです!で、崇光天皇は護良親王の皇子だということです。なので北朝は実質南朝になったのですが、表面的には北朝として通しているわけですね。
後光厳天皇、後円融天皇、後小松は実際北朝の天皇だったとは思うのですが。
で、南朝と化した崇光天皇(実は後醍醐天皇の皇子)の皇子の栄仁(よしひと)親王は天皇にはならずに初代伏見宮家として実質南朝として裏で君臨することになるのです。(これが落合氏がいう国際ウラ天皇なのでしょう)。その皇子の貞成(さだふさ)親王も天皇にはならず裏で君臨。しかし101代天皇である称光天皇のとき、天皇が夭折されたため3代目伏見宮(貞成(さだふさ)親王の皇子)が後花園天皇として即位。ここではじめて皇統は南朝に統一される。
要するにまとめると、南北朝時代には二人の天皇がいたとされますが、実は後南朝も新北朝も南北両統を一本化するための過渡期であって正式天皇でなく、正式天皇は伏見宮貞成親王の王子・後花園天皇から始まるということです。で孝明天皇まで南朝として続いていくわけです。
さらに明治維新で孝明天皇は秘密裏のうちに京都の堀川御所に入り裏天皇となります。
と、これが落合秘史の内容です。驚きですね!!
まずここを押さえておかないとというより、落合秘史の基本事項かもしれません。
落合氏がこの説にたどり着くまでのことがP70までに書いてあります。
ちょっとややこしいので本を読んでくださればよいかと思います。
ちなみにウィキペディアによる伏見宮の説明は北朝の立場で書かれています。
伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。
第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。
しかし家紋が伏見宮十四裏菊で裏を向いているのがなんだか怪しいですね!
さて落合氏の手にかかると伏見宮(伏見殿)は以下のような説明になります。
P183~引用
父である後醍醐天皇と通謀のうえでありもしない罪を被って鎌倉に移された大塔宮護良親王は、足利尊氏の弟の保護下におかれ、やがて偽装死を敢行し鎌倉極楽寺を経て大和国西大寺に入り、ここを根拠にして吉野に出かけていました。
古代の土師氏にはじまり、役小角がはじめた非人救済事業の流れを汲む西大寺は非人救済の実績を数世紀に渡り積んできた真言律宗の本山です。
ちなみに古代の役民、中世の非人とは律令制度外の非農業民のことです。
古代に朝鮮半島から古墳建設のために渡来したツングース系の非定着民や労働者の子孫で、律令制度下の公領から逃散した百姓たちも混じっていました。
奈良時代から、平安・鎌倉にかけて朝鮮から渡来し、丹波、摂津、河内、大和など諸国に住み着いた雑民労務者の子孫は時を経て増加し、畿内人口の大きな部分を占めるにいたりましたが、多くはなお無籍のままでした。
大和朝廷で「役民(えのたみ)」と呼ばれていた無籍民に対する社会政策を担当していたのが「加茂の役君(えのきみ)」でその頭領の加茂役君小角は役行者と称し、山岳信仰を極めて修験道の元祖となりました。これを引き継いだのが仏僧行基です。
律令制の最大の制度的欠陥たる無籍民対策をカヴァーしてくれたことから「行基大菩薩
」とたたえられます。
これ以来、渡来系都市雑民の社会対策を、律令国家が行基の流れを汲む宗教勢力に委託したかのような形になります。
その宗教勢力とは西大寺で、土木建設事業をはじめ、労務者の福利厚生、療養介護、環境衛生、埋葬、などを自主的に運営しました。
無籍の役民たちはここで従事しながら事業収入を得ていました。
西大寺の収益の元はこの事業です。
空海は紀伊国で採れる水銀を原料とした水銀製剤を、特効薬として売りさばかせ高野山密教の主な財源としましたが、それを南朝が引き継いだ形で吉野産の水銀から特効薬を製造しました。
その販売に当たったのが西大寺傘下の非人衆で全国に設けられた極楽寺を拠点に行商し、任せて西大寺と伏見宮のために諜報活動も行っていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用おわり
(memo)
☆ 現在宮内庁のHPには歴代の天皇陵を調べても掲載されていない天皇陵があります。
御陵はもちろん残っております。が宮内庁のHPで調べても北朝の陵墓の場所は載っていないらしいです。
京都市北郊の山中に位置する。この寺の開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である。南朝後村上天皇行宮にて落飾(出家)し、禅宗に帰依した。
北朝の初代・光厳天皇と、第102代の後小松天皇が祀られています。
北朝第4代後光厳天皇、北朝第5代後円融天皇、第100代(北朝6代)後小松天皇、
第101代称光天皇、第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、
第105代後奈良天皇、第106代正親町天皇、第107代後陽成天皇
初代伏見宮の栄仁親王(北朝第3代崇光天皇の皇子)を合葬した陵墓です。
北朝第2代光明天皇と第3代崇光天皇、さらに伏見宮家第2代の治仁(はるひと)親王が祀られています。
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落合氏に寄れば北朝は南朝に入れ替わっていたのですから、今の皇統は南朝が正統だとしても、北朝として実在した天皇を宮内庁のHPに掲載されないということは抹殺されたのも同然ですね。
日本の象徴である皇室がこんなに複雑で一般市民にはよくわからない存在というのもすごく謎です。
いままで隠していた南朝を表に引っ張り出してきた意図はなんなのでしょうか?
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ところで落合氏の情報源が気になるところですよね。
これを教示してくださるのは「京都皇統代」に仕える「加勢舎人」です。
そのパターンはまとまったストーリーとしてではなく、史実の断片をヒントのような形で伝えられるので、それを自力洞察により解読して奉答すると、すぐに講評を還されるとともに、一層深い史実の断片が伝えられます。
それが「落合秘史シリーズなのです」
また落合氏の家柄も南朝系の天皇が出せるような家柄だそうです。
だから宮内庁にもお伺いをたてられるのでしょうね。
~memo~ もうひとつの南朝論
この章をまとめてあるブログを見つけましたので貼っておきます。