日本人が単一民族でないように、縄文人も単一民族ではない

縄文人の祖先は少なくとも三つのルートから、この日本列島にやって来ていたと考えられる。

縄文人」・・・2万7千~1万年前

ミトコンドリアDNAの解析によって、「縄文人」は、「港川人」とは別系統であることが分かるとともに、従来の骨格均一説を否定する。
かつ、「縄文人」のDNAは、複数のルーツを持ち、各地域の環境要因によって突然変異を繰り返したのである。


★北方ルートの「縄文人」 
氷河時代の厳寒期には、海面の水位が下がり、大陸と陸続き、あるいは季節によって陸橋化しており、シベリア~東北アジアからマンモスを追って移動して来た。
北海道~東北の「縄文人」先住民の多くは、このように北方起源のDNAを持つ。尚、関東以西では少数。
北海道白滝遺跡からは、旧石器時代終期(中石器時代とも言う)の特徴である、黒曜石の楔形(くさびがた)細石刃核(さいせきじんかく)という打製石器が出土された。 


 
 


港川人(沖縄)は縄文人の祖先ではなかった

日本の旧石器時代の人骨は、ほとんど沖縄で発掘されたものであることはすでに触れた。全身の人骨が残るものとして最も古いのは、推定1万8,000年前とされる港川人である。

f0008679_21164088.jpg港川人は、1967年に沖縄県八重瀬町にある標高20メートルほどの石灰岩台地の80センチほどの割れ目(フィッシャー)に詰まっていた土の中から鹿や猪の化石骨とともに発見された。発見したのは那覇市内でガソリンスタンドを経営していた大山盛保氏である。
<写真:大山盛保氏>

f0008679_2135134.jpg発見された港川人の人骨を分析したところ、4つの個体が確認された。うち全身骨格が残っていた人骨は、突き出た眉間、四角く横長の眼窩、角張った顎などの特徴が、九州以北で発掘された縄文人の頭蓋の特徴と似通っていることから、この港川人こそが縄文人の祖先とされてきた。
<写真:縄文人の祖先とされていた分析に基づく復元図、日本人っぽく描かれている>


f0008679_21351713.jpg2009年に国立科学博物館による港川人の人骨の再調査が行われたところ、港川人を九州以北の縄文人の祖先とする学説に大打撃を与える事実が明らかになった。港川人の復元された下顎が、誤って接着されていたことがわかったのである。正確な下顎の幅は11ミリも短かった。CGで復元された港川人の顎は丸みがあり、角張っていなかったのである。
<写真:新たな分析に基づく復元図>

全身骨格の形態を見てみると、肩幅は狭く、鎖骨や上腕骨が細いなど上半身が華奢な割に、大腿骨は発達しており、下半身はがっしりしている。またひざ下が縄文人とは異なり、かなり短いという特徴も明らかになった。頭骨については、やや似通っているところが多いが、全身のつくりは大きく縄文人と異なっていたのである。

つまり港川人は九州以北の縄文人との関係が薄いということが分かってきたのである


 

そこで注目されたのが、2004年にハノイの南西50キロ、ホアヒン省カオサイ村にある幅11メートル、高さ5メートル、奥行き18メートルのハンチョウと呼ばれている小さな洞窟から発見された約1万年前の女性の人骨である。人骨は洞窟の入口近く、地下80センチの場所で発見された。この東南アジア最古の人骨であるハンチョウ人は、四角い眼窩、広い鼻の空間、頭が前後に長い、眉間が盛り上がり、ほりが深い、下顎枝の上下の長さの割合という新たに判明した港川人の特徴と一致したのである。

さらに2008年に沖縄県南城市の武芸洞から2,500年前の人骨が発見された。発見された人骨は、上半身が細く華奢、鼻の付け根から顎までが短く低顔で、頭骨は縄文人より上下に短く、身長が150センチと縄文人の平均身長160センチに満たないなど港川人(港川1号は身長153センチ)に近い。わずか一体の事例を持って断定するのは早計だが、港川人に代表される集団は、東南アジアから沖縄に渡り、その後も沖縄にとどまり、北には移動しなかったということも考えられるのである。

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沖縄の港川人とヴェトナムのハンチョウ人はなぜ似ているのだろうか。それはおよそ5万年前、西からアジアに初めてたどり着いた人たちと関係がある。
 当時は氷河時代のため、海水面がおよそ70m程低く、東南アジア一帯はスンダランド(地図の緑色の部分)という広大な陸地になっていた。アジア最初の人類はこの地に広がり、その後一部はメラネシアやオーストラリアに渡った。また北に移動し東アジアに広がった人達もいたと考えられている。
 しかし、そのスンダランドにいた初期アジア人はどういう顔をしていたのか、これまでその手懸りがほとんどなかった。今回のハンチョウ人の発掘は、その空白を埋めるものだった。
 ここで初めて、スンダランドにいた人達がどういう人であったか、このハンチョウ人がその子孫だとすれば、はっきりと見えててきた。

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また、「縄文人」は、海面の水位が下がって陸続きだった、朝鮮半島南部と往来していた。朝鮮・龍湖洞(ヨンホドン)からは、共通の特徴である外耳道骨腫(潜水による後天的な突然変異)の化石人骨や、日本の佐賀県産の黒曜石を使った剥片尖頭石器も見つかっている。そして後に、日本列島を北上し、北方ルートの「縄文人」と混合して行った。

 

2万9千~2万2千年前から始まった日本列島の大規模な噴火は、果てしなく続き、この時期の「縄文人」の大多数が死滅し、また各地へと霧散したと考えられている。

 

姶良(アイラ)火砕噴火

長岡ら(2001)によれば約2.9万年前[5]、Smith et al.(2013)によれば約3万年前[1]、地質学的には比較的短い期間(数ヶ月以内)に相次いで大噴火が発生した。一連の噴火は総称して姶良火砕噴火と呼ばれ、噴出物の総量は450-500km3と推定されている[4]

はじめに現在の桜島付近で大噴火が発生し、軽石大隅降下軽石)や火山灰が風下の大隅半島付近に降り積もった。続いて数回にわたって火砕流(妻屋火砕流[6]、垂水火砕流[7])が発生し、カルデラ周辺に粒の細かい火山灰が降り積もった。ここで一旦、数ヶ月程度活動が中断した後、破局的な巨大噴火が発生した。

この噴火は現在の桜島付近で始まった。次第に火道が拡張されるとともに岩盤が粉砕されて空中に放出され周辺に落下した。粉砕された岩塊(亀割坂角礫)は現在の霧島市牧之原付近を中心とした地域に最大30メートルの厚さで降り積もり、中には直径2メートルの巨礫も含まれている。

最後にカルデラ北東部の若尊付近から大量の軽石や火山灰が一度に噴出した。素材となったマグマは温度が770-780℃、圧力が1600-1900気圧であったと推定されている。噴出物は巨大な火砕流(入戸火砕流)となって地表を走り九州南部に広がっていった。一方、空中に吹き上げられた火山灰(姶良Tn火山灰)は偏西風に流されて北東へ広がり日本列島各地に降り積もった。関東地方で10cmの厚さの降灰があったとされる。

 

狗奴国は百済である/カリエン人について/ウバイド文化

以前の加治木氏の説で、狗奴国の王が卑弥呼を攻めた内容について、狗奴国は種子島に相当しそこにいた神武天皇が鹿児島の隼人町に居た卑弥呼を攻めたということを書いたが、その狗奴国(種子島)が百済の前身であるということも書かれています。

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簡単に説明すると・・・

[狗奴国]は狗=ク、奴=ド、国=ラで[クドラ]。

沖縄語では<o>がないから、<ド>を<ダ>と発音すると[クダラ]だ。

狗奴国=百済

百済朝鮮半島の西南の隅にあった国だと思われてきたが、

魏志・韓伝』には、その辺りは馬韓であって、百済という名は出てこない。

その中に小さな伯済という村か町程度のものがあるのが、

ヒョツとすると、それかな?……と思えるだけである。

ところが[倭の五王]の記事で有名な中国の正史『宋書』になると

倭王・珍]が宋政府に送った手紙に、

はっきり[百済]という国名を記入している。

これは元嘉二年より後、同二〇年より前だから、430年前後である。

それがまだ朝鮮半島百済だとは決まらないのだから、

ヒミコや伊支馬の時代に確実にあった百済[ホ]の国は[種子島]だけということになる。

 ※出典:加治木義博・言語復原史学会「KKロングセラーズ卑弥呼を攻めた神武天皇』:214」

 

百済新羅高句麗のまとめ 

加治木氏によれば、宝貝(コウリー)経済の中心地沖縄の高麗人(カリエン人)が北上して高句麗を建設し、南九州の「枚聞(ヒラキキ)神社」(新羅王神社)と九州本土最南端の美しい山「開聞岳」のあるヒラキの地から北上して新羅ができ、百済は上記のように狗奴国が前身としている。

 

☆カリエン人について

 

 後期縄文時代の日本列島先住民・高族(カリエン人)は

 バビロン崩壊で東方に移住したカルデア人の子孫。

 

 

カルデアメソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称である。紀元前10世紀以降にこの地に移り住んだセム遊牧民の諸部族はカルデア人と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前7世紀に新バビロニア王国を建国した。

BC598年バビロン捕囚(ユダ王国を滅ぼし強制移住・奴隷化)強制移住&奴隷化(バビロン捕囚)。

古代世界においてカルデア人天文学占星術を発達させていたことで高名であり、「カルデア人の知恵」とは天文学占星術のことであった[3]占星術を司るバビロニアの知識階級ないし祭司階級をたんにカルデア人と呼ぶようにもなった[4]

 

 

その彼らの移住コースを探る実習を今回の結びとしよう。

 言語による手掛かりでは、インド・パキスタン北部、

 サカ人やマケドニヤ人が侵入する以前に入って、

 ドラビダ人と混血した人たちの言語に、

 日本語と酷似した膠着語(こうちゃくご)の Kolaria コラリヤ語がある。

 特に「添接辞」を多用するのは日本語そっくりである。

 コーラルは珊瑚(サンゴ)、コウリーは宝貝で、

 高麗・高句麗・コーリア・高知・河内への名詞中の流れに結びつく。

 叙事詩 Mahabharata マハーバーラタ

 流浪の吟遊詩人族 kusilava クシラバ(串良国)らが広めたものだが、

 ガンジス何とヤムナー河合流点の北、

 Kuru クル地方の支配者者 Bharata バラタ(原田)族の子孫を、

 Kaurava カウラバ(高良国)という。

 これらの名も無関係とは思えないが、

 パーリ語の kala カラ は黒、

 黒い鳥カラスの語源はこの kala。

 八咫烏(やたガラス)は建角身(タケツヌミ)で、タケチヌミ=武内大臣(タケチヌウミ)=高氏の大王。


賀茂建角身命

山城賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社下鴨神社)の祭神として知られる。神武東征の際、高木神天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。
 

 

パーリ語の kula クラは良家、

 koley コーレイは高貴で、

 彼らがなぜ高族かを記録している。

 それは当然で、

 国家は崩壊してもハムラビ法典を生んだ前バビロンは、

 当時の世界で最高の文化をもっていた文明国だったのである。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学講義録18:34頁」

 

  『参考』
 『言語復原史学会:Web』

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 ☆Kusilava  クシラバ族  放浪詩人 琵琶の完成者 

 

 夏王朝は戦後に遺跡が次々に見つかるまでは、伝説上の王朝だとされてきたが、

 『史記』その他には、かなり詳しくその歴史が記録されている。それによると、

 その国は「夏后」という国名で、第3代王の太康のとき東夷に攻められて敗れ、

 少康の父・相は同族の間を次々逃げ回ったが遂に殺された。

 その妻は逃げて生家に戻ったあと出産して少康を生む。

 少康は40年後に夏を再興して第6代の王になり、

 王子を夏后国の建国者である初代・禹(う)王の墓のある会稽の王に封じたところ、

 新王は頭髪を短く刈り、入れ墨をした。

 それは潜水して漁をするとき、海の怪物から身を守るという習俗だが、

 倭人も同じ考えと習俗をもっている。

 カリエン人がバビロンの崩壊で東方大移動をした旧カルデア人だったことを、

 タイに非難移住していたミャンマー国籍のカリエン人の指導者から直接聞き、

 また13次にわたる現地調査で、

 彼等の全てを確かめたことを、著書などでお話ししてきたが、

 私たちの本領である言語復原史学なら、それが真実であることと、

 

カリエン人と夏人と倭人との血縁の強さ深さなどを、

 さらに強力に印象的に立証することができる。

 今のベキン語は旧満州中国東北部にいた金人が、

 明朝を滅ぼして清帝国を樹立したために現在も中国の標準語になっているが、

 金人はもともと奄美・沖縄の南島人の子孫で、

 ペキン語の発音にも南島発音が多くの影響を与えているし、

 清の皇帝がもつ愛親(アイチン)という姓が、

 南九州方言で「愛知の」を意味することなども、重ねて立証している。

 清(シン)も金も沖縄発音で「チン」、ウチナー(沖縄)も

 「大チン国=大天国=天竺」で、みな同じ国名である。

 そのペキン語では「人」を「リェン」と発音するから、

 夏人もカリェンである。

 南九州方言ではラ行音はザ行音になり、拗音は消えるから、

 カリェンはカジエンになり、

沖縄ではカージエンになるから、

 その原音はカルヂアンだったことが突き止められた。

 中国初代王朝はカルデア人から始まり、

 私たちとも近緑の血を分けた兄弟だったのである。

 倭人章は、この夏人と倭人の共通点を見抜いていて、

 ピタリと指摘してみせている。

 この事実も、魏人のもっていた人種学知識が現代以上に優れていて、

 倭人らの服装、晋観を一見しただけで、

 ぴたりとそのルーツを見抜いてしまったのである。

 だから帯方群使らの学識の高さは、

 この一事だけでも身にしみてわかるはずである。

 彼等は、現在の日本の人類学者でも気付かなかった関連を、

 即座に指摘できるだけの学識を身につけてもいたのである。

 だから当時の中国人が、

 当時としては遥かな辺地だった日本列島人のルーツや東都を、

 今の私たちが考えもしない黒歯国などまで細かに同族と認めて、

 わざわざ記入するほどに熟知していたという事実を、

 改めてしっかり確認しておく必要がある。

 ついでにここで、

 黒歯国は本当に倭人と同種だったのか?みてみよう。

 歯の黒い人々は、現在も台湾以南の各国で沢山みることができる。

 それは一種の嗜好風習の結果である。

 コショウ科のキンマの葉で、

 ビロウ椰子の実と石灰を包んで噛む習慣のため、

 歯が真っ黒に染まるのである。

 その主流はインドネシア系の人々で、

 日本語の主流もマレー語だし、黒い歯を美として喜ぶ奇妙な風習は、

「お歯黒」として今でも映画の時代劇などでみることがあるし、

 お歯黒をした人は昭和初期まで残っていた。

 これが答えである。

 『参考』:倭の古王国と邪馬台国問題 著者: 中島一憲

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☆ウバイド遺跡

ウルから北西に6キロのテル・アル・ウバイドでニンフルサグの神殿が見つかったのは1923~24の発掘でのこと
テル・アル・ウバイド豊饒の大地母神
ウバイドとは南メソポタミアのアル・ウバイド遺跡で最初に発見された為にこの名がつい ています。

ウバイドの女性土偶 | ルーヴル美術館 | パリ

☆ニンフルサグ(Ninhursag) とは

の母神」のシュメール名。ニンフルサンガとも云う。

ケシュ、ラガシュ、アル・ウバイドに神殿があった。(『古代メソポタミアの神々』)

 

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我が国と中国は、少なくとも三千数千年前には同じウバイド人が住み、その伝統の女性主導「大母=大婆(ウバイ)王」国の首都をなしていた。

この母の一音「モ(一例=母里(モリ)」は、沖縄語では「ムー」に成る。

ムー大陸があったという説を頭から嘘と決め手かかるのは間違いである。

それは位置、内容ともに、言語復原史学会で解明してきた真相と多くの一致点をもち、日本列島を巨大な陸地と感じて「大陸」と呼んだことも当然のことである。

言語復原史学会の研究はこれからますます面白くなる予感がする。

これまで検討してきた「ウバイド=ウワイト=倭人」の事実は、すでに疑う余地のない証拠群を積み上げたが、まだ大量にあって、それを全部言語復原史学会の講座で扱うのは場違いである。

これで充分ご納得がいったと思うので、ウバイドの発生と発展の背景である古代オリエント史を、見易く整理しておくことに使う。

在来のオリエント学説では、オリエントの最古の集落遺跡は、イランとイラクとトルコの周辺に散在する農排と牧畜による食料生産経済発生に伴う遺跡群で、紀元前7000年頃のものであろうとされていた。

続いていてメソポタミヤ北部で紀元前6000年頃の新石器を使う人々の村落跡が発見され、サマッラで最古の灌漑農耕施投が見つかっているが、ウバイドが属するメソポタミヤ南部にはせいぜい紀元前5300年頃の集落遺跡しかないとされていた。
出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録38
:29頁

「オリエントの遷都開始期」

1980年代にウバイド遺跡の洪積層の下に、さらに古代の遺跡が見つかり、発掘調査の結果、それが8000年前のものだと確認されたが、折悪しく発生した湾岸戦争で中断し、それ以上の進展は見られないから、考古学的な実態は今のところ不鮮明である。

私たち倭人(ウワイト)の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、是非知っておきたい大問題である。

調査の再開が待ち望まれる。

発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、

その決定方法などをお考えになってお教え頂きたい。

B.C.E.9000年  最古の農耕・牧畜集落遺跡群散在

B.C.E.8000年  前ウバイド期の集落遺跡

B.C.E.8000年  最古の灌漑農耕施設 サマッラ

B.C.E.8000年  新石器使用村落跡 メソポタミヤ北部

B.C.E.6500年
↓      ウバイド文化遺跡群
B.C.E.6000年  フジスタンにスサ誕生
↓      ウバイド文化の北部進出遺跡群
B.C.E.5500年
↓      ウルク
B.C.E.5100年
↓      ジェムデト・ナスル期 都市化進展
B.C.E.5000年  スメル文明最盛期・都市国家群立
↓      初期王朝時代
B.C.E.1792年
↓      バビロン第一王朝
B.C.E.1750年

出典:加治木義博『言語復原史学会』大学院講義録38
:30頁

加治木義博 「卑弥呼を攻めた神武天皇」  古代沖縄経済の中心産業「宝貝」

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古代の沖縄の人たちは主として中国との交易で生活をしていました。

柳田国男氏の「海上の道」から引用してみます。

「秦の始皇帝の世に、銅を通貨にするまでは、中国の至宝は宝貝であり2種のシプレア・モネータと子安貝は、一切の利欲願望の中心であった。」

 

「モネータ」は「マネー」の語源であるラテン語で貨幣のこと。日本では「黄色宝:キイロダカラ」と呼ばれる。

沖縄がその供給地で、アジアの全域にわたって、沖縄近海産の宝貝が出土している。

では、そうした宝貝産業はいつごろから始まったのか?

それは全島にあった「貝塚」が教えてくれる。ところが沖縄の貝塚からは貝殻の殻は全く出てこない。

それは貝塚がつくられた、縄文・弥生時代すでに宝貝は貴重な輸出品であって、食用にすることが許されなかったことを、はっきり物語っているのである。

ではその宝貝を供給して、世界経済を支えていたのは、どういう人々であったのであろう。

鎌倉時代に中国へ向け出航した日本商人が、台風にあって琉球列島へ漂着したときの見聞録「漂到琉球国記」という文献が今も残っている。それにはその筆者の写生が載せられているが、そこに描かれた風俗は私が13回にわたり現地調査したタイ奥地からミャンマーへかけて住む、カリエン人そのままである。

また別族は広東省海南島雲南省に住む。日本語と同系統の言語を話し、風俗習慣も私たちと多くの共通点を持っていることがわかった。

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カリエン人たちが残した最大の遺物。これが「KOREAN]である。英語ではコリアンと呼ぶが、その先祖のインド語では「カリエン」と発音する。それが「高麗人」の英語読みであることは御存知だと思うが「コウリー」と発音できるこの「高麗」という国名はいったい、何を意味しているのだろう。

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これが「宝貝」だったのである。

だから当時の高麗人(カリエン人)にとってはこの貝が生活を支えてくれる「宝」であったことは誰にでもわかる。

こうみると「宝島」(鹿児島のトカラ列島に浮かぶ)の意味もよくわかる。

また沖縄から熊毛にかけての高麗人(カリエン人)が九州を北上して、高句麗を建国したのだ。

★和人と倭人と縄文、弥生、古墳人の区別

「和人」は縄文時代から日本列島にいたが、「倭人」は卑弥呼の時代に初めて九州に来たアショカ仏教布教団が広めた初期仏教信者のことである。

彼らは、古墳と呼ばれるストゥーパを日本に建て始めた。

だから「和人」が縄文人なら「倭人」は古墳人である。

厳密に言うと「倭人」は「弥生人」とも違う。「倭人伝」は「銅鐸」について何ひとつ書かないことで、はっきり書き分けている。弥生時代後期の本州西部には銅鐸を持った人たちが住んでいたが、古墳がつくられるようになるとそれは姿を消した。

勢力の交代があったこともはっきりしている。

当然「倭人」は「弥生人」と区別しなければならない。

また「倭」の発音は「ウワイ」である。

三国史記」が記録している三韓の王たちはみな「和人か倭人」である。

 

(memo)・・・・・・

殷・周の貝貨

貝貨 15-21mm 0.5-2.0g

 中国では新石器時代の晩期の紀元前30世紀ころから、墓地に宝貝が埋葬されています。
 宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島ベトナムです。 はるか海上の道を伝って運ばれたものです。 宝貝の裏面は丁寧に削り取っています。
 殷王朝の末期から西周王朝の末期にかけて、王や王族が家臣に宝貝を下賜した記録が残されています。
 西周第5代の天子穆公は、治世13年(紀元前989年)6月6日、西域の赤烏の王に、
    墨車4輌、黄金40鎰(800両)、貝帯50、朱薬300嚢
を下賜したとの言い伝えがあります。
 柳田国男さんは『海上の道』の中で、琉球諸島宝貝が殷王朝に供給された可能性を強調されています。

 

 

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↑殷の時代の貯貝器

◆ 8~9世紀 中国雲南地方(南詔
 『唐書南蛮伝』では、南詔国の風習として、
   ■ 貝をもって市易し、貝十六をもって一覓(べき)となす。
と記しています。「覓」の意味は不明です。

◆ 13世紀 中国雲南地方(大理)

「貯貝器」という貝貨を保存するための器で、
雲南地方の墓から出土したもの。
(「クロニック世界全史」(講談社)を利用しました)

 13世紀末、元を訪れたマルコポーロは、『東方見聞録』の中で、雲南・大理地方で、子安貝が貨幣として使用されていることを書いています。

◆ 14世紀 タイ
 14世紀の中国の汪大淵は、タイのロップ・ブリ地方ではコインの代わりに子安貝で取引するのがルールだと記しています。
 タイでは18世紀まで使われていたそうです。

◆ 14~20世紀 アフリカ(マリ)
 1352年、西アフリカ内陸部のマリを訪れた旅行家イブン・バットゥータは、宝貝が金の延棒や銅線(”銅銭”ではありません)とならんで正規の通貨として使われており、しかも産地のモルディブ諸島の1000倍近い価値があったことに驚いています。 宝貝モルディブから北アフリカ経由で、サハラ砂漠を横断して伝えられたようです。
 16世紀初頭にこの地を訪れたレオ・アフリカヌスも、高額貨幣は金、低額貨幣は宝貝だと記しています。
 この地方では、20世紀前半まで貨幣として使われていたそうです。

◆ 15世紀 モルディブ諸島
 1416年、鄭和の南征に同行した馬歓の報告書『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』では、モルディブ宝貝を採集し、シャム(タイ)やベンガルに輸出していたことが書かれています。

  ● ダホメ王国
  ダホメ王国は、西アフリカの現在のベナン共和国にあった人口およそ20万人の国です。 17~18世紀が最も栄えていた時期でした。
  王は神聖なものとされ、絶大な権力を誇っていました。 常備軍は『アマゾン軍団』と呼ばれ、5000人のよく訓練された女性兵士たちでした。

  ● 80進法
  宝貝を数えるとき、「80進法」という慣習がありました。 仮に貨幣の単位を「セディ」とすると、1セディ=宝貝1個、10セディ=宝貝10個なのですが、100セディ=宝貝80個なのです。 さらに、1000セディ=宝貝800個、1万セディ=宝貝6400個となります。
  今、「ヤシの実」ひとつが1セディとすると、商人が100個のヤシの実を100セディ(=宝貝80個)で仕入れ、市場でひとつずつ売ると、宝貝100個になります。 この差の20個が商人の利益となるのです。

  ● なぜ宝貝を?

(地図は、帝国書院の「新詳高等地図」を利用しました)

  宝貝は西アフリカの各地で使用されていました。 この宝貝は、イスラムの商人によりモルディブ諸島から北アフリカサハラ砂漠を経由して運ばれたようです。 13世紀ころから、ダホメ王国の北にあったマリ帝国でも使用されていることが記録されています。
  なぜ宝貝を貨幣にしているのですか? 
  この質問に、ダホメの王はこう答えたそうです。
    ”誰もが模造できない”
    ”誰もがひそかに金持ちになることができない”

  ● 奴隷の輸出
  一見のどかな王国のようですが、王の命令の前には、人の命は限りなく小さなものでした。
  国内では、王のスパイたちが不穏分子を捕らえました。 『恐怖政治』です。
  また毎年、近隣諸国の人と財を奪う戦を行いました。 獲得した捕虜は、一部を先祖への貢ぎとして生贄にし、残りをヨーロッパ人に売却しました。 ヨーロッパ人からは火器を買い、ますます強力となりました。 この地帯はヨーロッパ人からは『奴隷海岸』と呼ばれました。
  奴隷の輸出は、16世紀に始まり、アメリカ大陸での需要の高まりで、年を追うごとに盛んになり、奴隷の値段もますます高値になりました。
   ・17世紀後半 宝貝1~3万個 (4~7ポンド)
   ・18世紀前半 宝貝4~5万個 (10~20ポンド)
   ・18世紀後半 宝貝15~20万個  (20~30ポンド)

  ● その後の王国

ガーナの20セディ白銅貨(1995年発行)

  1848年、ヨーロッパ人から宝貝を輸入することにしました。 ヨーロッパ人は、喜望峰周りの船で何億個もの宝貝を運んできました。 そのため、大きなインフレになり、経済は大混乱しました。
  遂に1894年、ダホメ王国はフランス領となり、宝貝の公的な使用も1901年に終了しました。
  その後1965年、ダホメ王国の西隣に建国されたガーナ共和国で新たな貨幣制度が設けられたとき、貨幣の単位は「セディ」と決められました。 セディとは貝殻の意味です。

 

http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/A005.htm

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

2016年に沖縄では、古代ローマ帝国のコインが発見されています。また、京都や広島でも紀元1世紀から4世紀頃の古代ローマガラスが発見されていることからも、古代日本でオリエントとつながる交易があったことの裏付けはあります。

沖縄の古代ローマコイン
日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG26HH8_W6A920C1000000/

その後の日本には、聖徳太子の時代にペルシャ人が朝廷の役人になっていたことを証明する木簡が発見されており、「秦氏」などの有名な渡来人がいたことからも、様々な渡来人が行ったり来たりしていただろうことは確実です。シルクロードという陸の道以外に、海洋民族がたどってきた「海の道」もあったのではないかと推測できます。

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古代史の画像・日本人のルーツ: 貝を貨幣にする大規模な分業

 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 125~125頁
     ㈱徳間書店
          

 

加治木義博 「卑弥呼を攻めた神武天皇」

☆前作「黄金の女王卑弥呼」のポイント

卑弥呼は沖縄の伊是名島で生まれたイザナギイザナミの子供。

天照大神であり天皇家の祖先である。

北上して鹿児島で邪馬台国の女王となる。記紀では崇神天皇の頃に対応。

また神功皇后卑弥呼や台与が反映された人物である。

神宮皇后の新羅征伐の話しは、すべて九州内で起こった出来事である。

(この頃はまだ朝鮮半島には新羅の国は存在していない)

九州内で新羅に相当するところは、枚聞(ひらきき)神社のある南薩摩である。

近くに開聞(かいもん)岳もある。ここがヒラキ(新羅)に相当する地で、この九州から朝鮮半島へ移り、のちに新羅がうまれることになる。

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☆今回のこの本のポイント

卑弥呼の邪馬臺国から新政権の邪馬壹国になったときの長は「伊支馬」だった。

この名は垂仁天皇の「活目・伊久米」によくあう。そして同じ時期にやはり伊支馬にあう名乗りをもった人物「高句麗王・位宮」がいる。位宮の家系は、沖縄から出て、鹿児島、熊本の地名を代々名乗りに持っていた。彼の数代前からは、北朝鮮高句麗にも君臨していて、漢や扶余に侵入している。位宮も魏が公孫氏を滅ぼしたときは、魏に味方して軍隊を出している。しかしその後、元公孫氏の領地を巡って魏と紛争を起こし、とうとう大戦争になって、首都・丸都城が陥落し、逃げて行方不明になった。

その直後に、卑弥呼と狗奴国王との不和が、魏の帯方郡に訴えられ、卑弥呼は死んだ。

そして「伊支馬」を首班とする新政権「邪馬壹国」が誕生した。

伊支馬は日本側の記録では「垂仁天皇」だからそれまでの「旧政権・邪馬臺国」の首班は「崇神天皇」。

*公孫氏(こうそんし)は、三国時代の中国において栄えた氏族。2世紀後半、遼東地方に半独立政権を樹立した。

位宮(いきゅう). 姓:位名:宮字:? 生没年(?-?) 出身地:高句麗親:伊夷模子:. 高句麗の王、伊夷模の妾の子。 生まれてすぐに周囲を目で見回すことが出来たという。勇敢で乗馬や狩猟を好んだ。 呉の孫権が遼東の公孫淵に使者を送り、 公孫淵に殺されたとき、逃げてきた呉の人間を保護し呉に送り返した。 238年、魏の司馬懿が公孫淵を討伐したときには軍勢を率いて魏を助けた。 242年、西安平に進入し略奪を働いたが幽州刺史の毋丘倹に撃退され、 都の丸都を破壊されると逃亡した。

日本との係り

魏志倭人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる倭国大乱から公孫氏滅亡後の卑弥呼による魏への遣使までに関する記事が途絶えており、かつ公孫氏滅亡直後に遼東経由で遣使されたことから、公孫氏が倭の勢力が中国本土朝貢する道を遮っていたことになり、倭からの朝貢を公孫氏が受けていた可能性もある。

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1.定説では神武天皇崇神天皇は同一人物ではないかとされている。

しかし加治木氏は別々に存在した天皇で、共に同時代に戦ったとしている。

記紀によれば、崇神天皇を攻めた武埴安彦(タケハニヤスヒコ)との戦いのことが書かれています。またそれとは別に武埴安彦(タケハニヤスヒコ)側から書かれた記録が存在します。それによると武埴安彦(タケハニヤスヒコ)側の軍というのは神武天皇軍だったのです。

そして神武天皇高句麗王でもありました。

2.「神武天皇に作戦を進言した椎根津彦」と「崇神天皇を攻めた武埴安彦(タケハニヤスヒコ)」は同一人物である。

また狗奴国は男王が治めその官命は「狗古制鼻狗」だと書いてある。(「倭人伝」)

これは椎根津彦と武埴安彦(タケハニヤスヒコ)と同一人物である。

共に3人は「コンチアキヒコ」と発音されていた人物である。

 

武埴安彦(タケハニヤスヒコ)=椎根津彦(シイネツヒコ)=狗奴国王=狗右制卑狗=神武天皇

 

3.卑弥呼崇神天皇の時代と一致するので(卑弥呼崇神天皇)対(狗奴国・神武天皇)の図式が成り立つ。

男王に滅ぼされたという史実はこのようなことであったと結論づけています。

そして戦いの場所は奈良ではなく南九州の鹿児島隼人町であるとしています。

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狗奴国に対応するところは屋久島であるとしています。

 

この戦い当時の北半球は、小氷期と呼ばれる時代で、東京天文台編の「理科年表」の世界気温分布図で見ると鹿児島と奈良の1月の気温差は10度近くもあります。

倭人伝」には「倭は温暖で冬でも夏でも生野菜が食べられる」という記録があり、倭人は準亜熱帯に住んでいたことがわかっています。

また、人々は筒頭衣(布を頭と手が出る部分を残して筒状に縫っただけのもの)という身なりでした。なのでわざわざ寒くて土地の痩せた奈良まで攻め込む必要はさらさらないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

木村正昭著「邪馬台国は沖縄だった」

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(本文 P210~)

与那国島南岸の新川鼻沖には、すでに述べたようにたとえば古代都市ローマの市街地をイメージさせるような地形が確かにあることが、新たに明らかになった。その代表的な構造物として、亀神殿、円形広場、ロータリー、水源地、海底スタジアムなどがある。

そしてこの近くには、これまでに確認されただけでも、10箇所ほどの階段状ピラミッドのような「海丘」と名づけた。ここか当初は「遺跡ポイント」、通称「階段ピラミッド」と呼ばれた部分である。

「第一海丘」の南にある2つの階段状の地形は、西から東へ、第2海丘(南神殿)、第3海丘と名づけた。海底城郭の中心部は、岸から約100メートルの沖合いにあり、水深26メートルの海底から立ち上がる階段ピラミッド状地形であることがわかってきた。

この海底ピラミッドの高まりの全長は東西に長く、斜面は階段状で、城壁もしくは城壁もしくは城郭のようにも見える。石垣など遺跡に関連した構造を含めたこの遺構の高さは26メートルで、1メートルほど海面上に顔を出している。

ここで貴重な発見があった。与那国海底城郭の地面の下で得られた岩石には、赤い色をした物質が付着していた。

これを分析したところ、鉛丹(えんたん)が塗料として使われていた可能性が出てきた。この鉛丹が日本に渡来したことが最初に記録されているのは、あの「魏志倭人伝」である。遺構の年代からも中国からきたものと思われる。

また、ピラミッドの東側では、長経70センチほどの楕円形の石が見つかり、その表面には牛らしい動物が浮き彫りにされ、表面に赤褐色の付着物が付いていた。分析したところ、彫刻されたあと、地表で風化したものと判断された。このように、この海底ピラミッドが人間によって陸上で造られたを示す「証拠」が、現在、着実に蓄積されている。

詳しくは次章に述べるが、弥生中~後期の日本付近で認められる大陸起源の遺物は、西南日本、特に沖縄に圧倒的に多い。また沖縄では、質的には少数であるが、卑弥呼で有名になった鏡のうち後漢鏡が出土する。他に胴鉄や鉄鏃(てつぞく・やじり)の出土がある。そして他に例を見ない特徴として、殷王朝を思わせる饕餮とうてつもん)の貝や骨細工が豊富に出土されている。

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(補足)

(いん、拼音: Yīn紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国王朝である。文献には天乙を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。

 

饕餮とうてつもん

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殷の甲骨文字

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(本文続き)・・・・・

それにも増して重要なのは、この時期の中国銭の出土だろう。産出地も非常に多い。

こうしてみると、海底遺跡および遺物には中国大陸の影響がうかがえる。

さらに、ごく最近思いもよらぬ物が出現した。与那国島の海底城郭から西方へ1キロほど行ったところの海に、立神岩と呼ばれる巨大なコブラのような石が海面上に立ち上がっている。

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その南の水中に、スフィンクスのようなモニュメントがあるのだ。

体は獣で顔は人面に見える。この人面の目は。明らかに人工的に削られた痕跡がある。

横顔は冠を被った東洋の王のようにも見える。

新宮市にある徐福の像のようにも見える。また海底からは、大きな牛と思われる彫刻が回収されている。重さ70キロほどの八重山砂岩層を削ってできたものだ。

与那国には、海底の陸上延長部にもサンニヌ代のような巨石遺構が多くある。

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かくして与那国の海底遺跡の形成年代が3000~2000年前ということがわかった。

それは徐福が活躍した年代を含む。

東洋的な王のスフィンクス、牛の彫刻、鉛丹と思われる朱色の塗料などを考えると、大陸の影響をうけた文化であり、年代的にも徐福となんらかの関係があるのではないだろうか。

 

 

木村正昭著「邪馬台国は沖縄だった」

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前回のポイント

★北谷海底城郭遺跡

2000~1000年前に造られ、1000年前以降に水没。

さらに詳しく調査した結果、2200年以降に造られ、600年前にほぼ水没。その後1000年前以降に再び海中に水没しはじめたことがわかった。

★与那国海底ピラミッド遺跡

2000年前には造られており、1000年もの間陸上にあったことがわかった。

 

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今日はP131~の内容が興味深いので、それを取り上げることにしました。

簡単にいえば、北谷遺跡の海中の王墓とおもわれるものが、韓国の文武王の水中墓に似ているという箇所があり、とても興味深いので本文と照らし合わせて、わからないところはネットで検索してみました。

☆文武王の水中墓とは?

文武王は、、626年 - 681年 新羅の第30代の王である(在位:661年 - 681年)。

先代の武烈王の長子。

在位中に高句麗を滅ぼし、またの勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。

在位21年にして681年7月1日に死去し、文武王とされた。王自身のかねてからの遺詔によって、新羅では初めて火葬された王となり、骨壷は日本海の浜辺の大石の上に葬られた。有名な海中王陵である。

1967年になって、水没された王の墓が発見された。 海中に墓を持つ王というのは、世界の王の中でもこの大王ただ一人である。

文武王は663年に、唐と図って百済・日本の連合軍を錦江下流の白村江で壊滅させ、百済を滅亡させる。ついで668年には、 高句麗の都の平壌城を攻めて高句麗も滅ぼす。そして韓半島の統一を果たすのである。今でも韓国では「文武王」とその父 である「武烈王」は、史上初めて朝鮮の統一を果たした偉大な大王として人々の尊敬を集めている。文武大王が在位した時代は、日 本ではちょうど天智天皇天武天皇の時代と重なっている。 天武天皇の孫が文武天皇なのであるが、なにか関係がありそうな気がします。これも調べる必要がありそうですね。

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画像は「邪馬台国大研究」のブログよりお借りいたしました。

文武王の海中墓はこのくらいにして、北谷の遺跡に戻りましょう。

北谷の墳墓で興味深いのは亀石と蛇石らしきものが発見されたということです。

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(引用)P131~・・・・・・

 この北谷沖の海底城郭のグスク構造の中に、与那国島の海底ピラミッドと同じく守護神の亀を模したと思われるドルメンのようなものが見つかった。ドルメンの背から見ると、人工的に整形された石が岩に立てかけてある。

この状態は沖縄本島南部の糸満市のドルメンや、セーファーウタキの巨大な石組み(これは自然物とされるが)とも似ている。

だが、不思議なことに、その亀を支えている土台の石灰石の盛り上がりが10メートルほどまっすぐにのびているばかりでなく、うねっている。そしてその先端は、蛇か龍のように見えた。ワニの頭のように見えなくもないが、からだの長さからいえば、どう見てもヘビか龍の頭だろう。ちょうど巨大な亀のしたから大きなヘビが鎌首を持ち上げているイメージに見てとれる。ここにはドルメンの前に巨大な廟のように見えるピラミッド状の構造物が控えている。向かって左側からそれを見ると「三神山」のシンボルのように見える。

おもしろいのは、海底ピラミッドのある環境が1300年ほど前とされる韓国の文武王の水中墓と似ていることだ。年代は北谷海底城郭の時代と一致する。この水中墓は、海中に亀型の大石の墓(ドルメン)がある。

墓の構成は、北谷のドルメンと似ている。海を眺める陸に陵があり、その海側に水路がある、といった構図だ。

またこれは沖縄に特徴的な亀甲墓にも似ている。

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↑与那国の亀甲墓

さらにこの亀を支えている史石がヘビ(龍)のようになっている。これは龍となって国を守る文武王の実話を暗示させる。

これはマヤ遺跡のククルカンにも似ている。

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さて私は2000年、文武王の水中墓を現地調査するチャンスを得た。

韓国の文武王の在位は661~681年。統一新羅をつくった王で、その死に際して「東海岸から龍となって国を守るため、遺骸は海に葬れ」と命じた。

約1300年前の出来事である。この王墓が後に発見されることになる。

というのも、「三国史記」に書かれたこの話は、単なる説話と考えられていた。しかし1959年に海岸から内陸へ2キロメートルのところにある感恩寺(かんのんじ)跡の発掘により、基壇のしたに特殊な遺構が発見されて「龍穴遺構」と名づけられ、文武王の計画があきらかになった。そして1967年キョンサンプクトウォルソン(慶尚北道月城)郡沖で水没した王の墓が発見された。

感恩寺の敷石の下に見つかった穴道(龍道)の延長に、文武王の海中陵が発見されたのである。

琉球と古代新羅に思いを新たにさせられる。

 

(memo)・・・・・・

感恩寺(かんのんじ)韓国慶

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アショカ王塔 日本近江

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感恩寺を見て、即座に思い出したのが近江のアショカ王塔です。

似てますね。ということは新羅の感恩寺もアショカ仏教の影響が大きいのでしょうか?

言語学者の加治木氏は卑弥呼伊是名島で生まれたイザナギイザナミの娘でありアショカ仏教徒であるという見解をもっておられ、かつ新羅をつくったのは沖縄から北上した倭人であるとしています。今回この記事を書いていて、沖縄はやはり重要なエリアだとあらためて思った次第です。ちなみに近江にいた古代豪族息長氏(おきながし)も私的には沖縄からきた氏族だと思っております。

 

 

木村正昭著「邪馬台国は沖縄だった」

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「黄金の女王 卑弥呼」の著者は言語学者の視点で、沖縄から南九州にかけてを邪馬台国の舞台として想定。

今回は海洋地質学者からの視点で海底遺跡邪馬台国の関係を解き明かそうとしている著作です。

とにかく超古代の沖縄は日本の原点を考える上ではずせないような気がします。

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さて、いきなりですが沖縄の海底には海底鍾乳洞というものがたくさんあり、ダイバーの人気スポットにもなっているようです。

木村氏がいうには、鍾乳洞というのは地上にしかできないものなので、鍾乳洞がたくさん海底にあるのは、そこが昔陸地であったということだと説明されております。

検索すると、びっくりするような画像があがってきます。こんなものを本当に見ると背筋がぞくぞくしそうです。

まずは海底鍾乳洞の画像を貼っておきます。

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↑宜名真ギナマ海底鍾乳洞(別名 辺戸ヘドドーム)は沖縄本島最北部の辺戸岬近くにあるダイビングポイント、日本で初めて発見された海底鍾乳洞で1万年程前に水没したらしい。

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(画像は個人のブログよりお借りいたしました。すごいですね!)

http://emiclock.blog.so-net.ne.jp/2013-09-23

 

(本文引用)・・・・・・・・・・・・P30~

海底遺跡では目下のところ、与那国島南岸沖100メートルを中心とする「与那国海底遺跡」と沖縄本島北谷沖にある「北谷チャタン海底遺跡」が規模の点では郡を抜いている。

「与那国海底遺跡」の中心的構造物は、巨大な階段ピラミッドのようであるため「与那国海底ピラミッド」と通称されている。

この周辺ではあたかも古代遺跡にあるような円形広場やスタジアム、水源地と思しき跡などが、一万年前の海岸線より内陸部にあたるところに散見される。

平坦なテラスやループ道路もある。

与那国島海底遺跡は、およそ3000年~2000年前にできたと考えられる。炭素14年代測定法とベリリウム10年代測定法より推定した結果だ。

測定する場所により多少の変動はあるものの、2000年前には造られており、1000年もの間、陸上に露出していたことがわかった。

一方の「北谷チャタン海底遺跡」のほうは、沖縄本島南部、嘉手納カデナ町の南に位置する北谷町の沖にある。

陸上にある首里城などのグスク(城)に似ていたため「北谷チャタン海底城郭」と呼ばれている。長径が900メートル、幅は200メートルほどあり、水深20メートルほどの海底から立ち上がっている。陸上にある中城ナカグスク城が長径200メートルほどであることからみると、数倍の大きさがある。

「北谷海底城郭」は今から2000年~1000年前の間に陸上で造られ、1000年前以降に水没していったという結果が出ている。

つまり「北谷海底城郭」は弥生時代中期~後期のものであることがあきらかになった。

この「北谷海底城郭」が邪馬台国の王宮ではなかったかと私は推定したい。

(有名な吉野ヶ里遺跡と構造や大きさがほぼ同じなのである)

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海底鍾乳洞は久米島与論島沖などでも見つかっている。これは前述したようにその前後に大地殻変動があったことを意味している。

大きな鍾乳洞は決して海底ではつくられることはないので、海底鍾乳洞のある水深はそのまま、当時起きた地殻変動による陥没の落差を示している。

その結果、琉球弧(南西諸島)全体に渡る4000年以降のだい地殻変動の姿がうかぶ。それはまた世界規模で起こった地球大変動という両面の要因を持つものであった。

ところで、地球は12000年ほど前に、最後の氷河期は終わった。

このあと温暖期となって海面は上昇するが、海水が増したため地殻への圧力が強まってマグマだまりを押し上げ、火山活動が活発になる。そして、寒冷期に向かうと、地殻は陥没する。温暖期を迎えると火山・地震活動は活発になり、これまで思いもつかなかったような激しい地殻の変動によって、台湾と南西諸島・九州を結ぶ琉球弧の「最後の陸橋」や、台湾や中国と繋がっていたいわゆる「琉球古陸」上で栄えた古代文明も、沈んでいった可能性は強い。

その後さらに沖縄本島北谷沖の海底城郭の調査を進めていったところ、この城郭は紀元前2世紀ごろから造られはじめて紀元前3世紀ごろには存在していたが、それ以降10世紀までの間に水没してしまったことがわかった。

となるとこの北谷海底城郭は、4世紀以降の地殻変動で水没してしまったことになる。

北谷沖だけでなく、少なくとも沖縄本島から与那国島までに認められる、共通した地殻変動である。

この時期は日本において歴史的記載のない「空白の4世紀」とみごとに一致するように見える。この事実はちょうど、中国の史書から倭国に関する記録がいっさいなくなっているに符号している。

やがて5世紀にはいり、政権が大和朝廷に移り、そこでまた使者を中国に送ったことにより国交が復活したと考えられる。が同じ倭国でも、首都は沖縄から大和に変わっていた。と大胆に推察することができる。

 (memo)・・・・・・・・・・・

沖縄の海底遺跡について

http://www.okinawainfo.net/iseki.htm